今回は、歴史クイズを出すことから始めたい。
中学校の社会の授業で習ったはずだから、頭のどこかに残っているはず。
では出題。
次の文化はなに?
平安中期から後期にかけて栄えた、温雅な日本ふうの貴族文化。仮名文学・寝殿造り・大和絵・仏像彫刻など諸分野でその特色がみられる。
(デジタル大辞泉の解説)
答えは「国風文化」。
この文化の特徴は、まさに日本風ということ。
それまでの飛鳥文化や天平文化には外国の影響が強かった。
けれど平安時代の国風文化になると、日本の独自性がとても強くなる。
そのことをもうチョイと、くわしく見ておこう。
国風文化
平安時代前期までの文化はあらゆる面で唐の影響を強く受けて発達したので唐風文化と呼ばれ,これに対し中期から後期にかけては著しく日本化されたものとなったので国風文化と呼ばれる。
(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説)
外国(唐)の文化を受け入れた後、日本人が独特の文化を創造する。
これは、日本の文化の大きな特徴だ。
その具体例として、着物がある。
着物はもともと中国の服だった。
それを日本人が取り入れると、次のように日本独自の服に変えている。
日本のキモノも、中国の古制とはいうものの、そのとおりではなく、やはり日本ふうにアレンジして保存されたのだ。とくに帯などは、まったく別物になってしまっている。中国の帯は「紳」とといって、前に長く垂らして結んだものである。
りっぱな帯をしめている人間が、紳士といったのだ。日本でもはじめは前に垂らしたが、しだいにうしろにまわって、現在ごらんのとおりのものと相成った。(日本的 中国的 陳舜臣)
くわしくは、下の記事をご覧あれ。
中国との違い③日本人の強み「変える力」唐の着物を日本の文化に
外国のものを、日本人が変化を加えて別のものにする。
日本人は、こうして文化を創造してきた。
前まで「アメリカ人が見た運動会」について書いてきた。
この運動会もまた、外国のものを日本で独自に変化させて、今では日本の文化にしている。
イギリスやドイツの職工体育的行事に起源を有するが、日本における運動会の発足は「国威発揚」「富国強兵」「健康増進」を目的として明治末期から社会的に広く普及したものであることから「近代日本独特の体育行事」であるとされる。
(ウィキペディア)
江戸時代に運動会なんてものはなかった。
日本で初めて運動会が開かれたのは明治時代(1874年)で、イギリス人の指導によるという。
日本の小中学校で働くアメリカ人やイギリス人に聞いても、日本でするような運動会は彼らの国にはなく、「日本独特の文化」だと言う。
ただ、運動会の起源といわれる「イギリスやドイツの職工体育的行事」というものがどういうものかが分からない。
だからどの点で、「日本風に変化したのか?」ということが、イマイチ明確ではない。
「運動会での日本の独自性」というものは、はっきりとは分からないけど、それがどのように生まれるかは少しは分かる。
簡単にいったら、他にはないその地域だけのものを取り入れていくということ。
友人のアメリカ人が「これはすごい!」と感動した種目に、「城落とし」があった。
これは、浜松の運動会だけにしかない独自の種目だ。
この由来は、戦国時代に浜松であった「三方原の戦い」になる。
このときの徳川家康と武田信玄との戦いを再現した種目で、今では浜松の運動会の目玉になっている。
この戦いは浜松でおきたものだから、これを取り入れた種目は当然、浜松独自の種目になる。
これが先ほど書いた地域性というもの。
浜松名物の「城落とし」についてはここを見てほしい。
画像もある。
徳川軍と武田軍が戦う、三方原合戦を再現したとも言われているのじゃが、
騎馬を組んだ児童が両軍に分かれて、それぞれに城を構え、大将を先頭に騎馬戦を繰り広げ、
城に玉を投げて攻撃。見事城を落とすと、白煙が上がるという、浜松キッズには、運動会の
お楽しみクライマックスなのじゃ。
現在の日本でおこなわれている運動会も、その起源は「イギリスやドイツの職工体育的行事」に求められる。
けれど、日本の風土や日本人の国民性などを取り入れていくことで、日本風に進化していった。
この、「外来のものに、変化を加えて独自のものにする」というパターンは日本文化の大きな特長で、日本人の強みでもある。
今回の復習
・「平安中期から後期にかけて栄えた、温雅な日本ふうの文化」はなに?
・「三方原の戦い」で戦ったのは、誰と誰?
答え
・国風文化
・徳川家康と武田信玄
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