東京・八王子市で「ご神木」をめぐって、神社と役所のあいだでバトルがぼっ発。
毎日新聞の記事(2020年6月21日)
八王子市と国、代執行でご神木伐採 周辺道路に枝葉、指導22回も神社側応じず
この神社にある木の枝が境内からはみ出して、「周辺道路の安全を妨げている」と記事にはソフトに書いてあるけど、写真を見ると、周辺住民に恐怖を感じさせるほど木が巨大化していた。
それで市と国は何度も枝の伐採を求めたけど、神社側はこれを無視。人間界のもめごとをよそに一心不乱に伸びるご神木の枝は、国道側に約9メートルもはみ出て信号も見えにくい状態だった。
それでとうとう市と国が行政代執行法に基づいて、危ない枝を伐採・撤去する。
枝を切らなかった理由について宮司は、「ご神木だから切れない」と予想通りのことを言う。
これにネットの反応は?
・これはご神木を掲げて強訴やろなぁ
・迷惑かけといて御神木とかないわ
・祟りがあるかもしれないのに、市の担当者は度胸があるな
・このあと、伐採に関わった人たちが無事に過ごせているか、1年は追跡調査をして公表すべきだ。 何もなければ以後は神木を伐採してもバチがあたらないという証拠になる。
ご神木は尊く大切なものだけど、それをきめるのは人。
人間から神聖視されているうちはご神木だけど、迷惑視されたら撤去対象となるから、21世紀の日本ではご神木も道路交通法を守らないといけない。
仏教や神道を大事にする現代の日本人にも仏罰や神罰はほとんど通じず、ネットの反応を見た限りでは、すべての人が市や国の決定を支持している。
でも、平安時代の日本だったらきっとこうはならない。
キリスト教やイスラーム教などの一神教に「ご神木」なんてものはない。
神罰や仏罰をちらつかせて令和の日本人をコントロールするのは、ゼロではないけどほとんど不可能だ。
でも平安時代ならこの場合、ご神木の成長に自分たちの生活を合わせていたのでは?
当時の日本人にとって罰罰・仏罰はネタではなくガチで、本気でこれを恐れていたから。
「これはご神木を掲げて強訴やろなぁ」というコメントにあった強訴(ごうそ)をご存知だろうか。
平安時代にはヤクザのような暴力的な寺や神社があって、自分たちの利権が損なわれるような事態が起こると、僧兵や神人らが仏罰や神罰を振りかざして、自分たちの要求を無理やり朝廷に押し通す「強訴」をよく行っていた。
強訴の理由はさまざまで、寺社の持つ荘園が侵害されたり他の寺社が優遇されたりすることなどで、要するに寺や神社は強訴によって自分たちの金や権利を守ろうとしたのだ。
強訴で特に有名なのが、奈良の興福寺と比叡山延暦寺。
この両寺は「強訴の常連」で、何か不満があると興福寺は春日大社の神木、延暦寺は日吉大社の神輿などを持って京都御所に押しかけて、「神威」によって要求を通そうとし、それが拒否されると神木や神輿を御所の門前に放置した。
当時の朝廷を牛耳っていた藤原一族でも、興福寺の強訴にはお手上げだ。
藤原道長が、
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思へば」
(この世は 自分のためにあるようなものだ 望月(満月)のように 何も足りないものはない)
という句を詠んだように、藤原氏は世間では絶大な権力を持っていたけど、春日大社は藤原氏の氏神だから、興福寺にその神木を突き付けられたら神罰が恐ろしくて何もできなくなる。
もしこのとき、「そんなものは恐れない!」と興福寺の強訴に反することをしたら、その人は「放氏」されて藤原氏一族から追放されてしまう。
地位や特権をすべて奪われて放り出されることになるから、藤原氏は誰も興福寺には逆らえない。
これをされると社会的身分のすべてを失うから家で謹慎閉門して、おゆるしを待つ以外に方法がなくなる。この手段があるから要求はすべて通る。
「日本人とは何か。(上巻) (PHP文庫) 山本 七平」
白河法皇が自分の思い通りにならないものとして、「賀茂川の水、双六の賽、山法師」の3つを挙げた。(賀茂川の水、双六の賽、山法師。これぞ朕が心にままならぬもの)
この「山法師」とは延暦寺による強訴ことで、当時の日本の最高実力者だった白河法皇でも神罰や仏罰にはどうすることもできなかったのだから、神社や寺には誰も手が付けられない。
ご神木を前面に出せば藤原家を従属させることができるし、藤原氏が御所に来なかったら政治は動かない。
神威をもってすれば朝廷を左右することができるから、興福寺のやりたい放題となる。
正応5年(1292年)に一挙に12名の廷臣を放氏して伏見天皇を憤慨させ、応安6年(1373年)には前関白の二条良基を放氏する(『摂関伝』ほか)など、濫発していった。
こうなると貴族や天皇など朝廷側は、強訴を押さえ込むための策を本格的に考えないといけなくなる。
そこで注目を浴びたのが武士で、朝廷は彼らを重用して僧兵や神人にぶつけることにした。
これは、新興勢力の武士が、仏罰や神威を恐れなかったためである。これにより、武士が中央政界での発言権を徐々に持つようになる。
でも朝廷は利用したと思っていた武士に利用されて、12世紀には鎌倉幕府が誕生して政治の実権は武士に奪われた。
「テントにラクダの頭の侵入を許すと、テントごと乗っ取られる」という言葉がアラブにあった気がする。このときの朝廷がまさにこの状態だ。
話を冒頭の神社に戻そう。
宮司が「ご神木だから切れない」と無責任なことを言って放置した結果、周辺住民が迷惑するほどご神木が大きくなってしまい、市が国や行政代執行で枝を伐採することになった。いまの日本に仏罰や神罰は通用しない。
これにかかる費用約1250万円は神社側に請求されるという。
平安時代ならともかく、21世紀に「ご神木」は言い訳にならない。
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日本で、白河上皇が「比叡山の坊主だけは言うことを聞かない」と寺社の強訴に苦しめられていた丁度その頃です。ヨーロッパでも、世俗の政治権力を司る「王」が、北イタリアのカノッサ城門にて、雪の降る中で裸足のまま断食と祈りを3日間も続け、ローマ教皇による破門を解除して下さいと赦しを請うたのです。
その後、ヨーロッパでは、ローマ・カソリックから分派したプロテスタント諸派の宗教改革運動によって宗教勢力は内部分裂を始めて力が弱まり、やがて絶対王政→市民革命・共和制・独裁制→民主政治の確立へとつながります。それでようやく20世紀へ至ります。
日本では、宗教勢力はキリスト教会の如き国際組織には最初から統合されておらず、神道も仏教も常に分裂状態であったと言えます。が、それでも前述のように、鎌倉・室町の時代を通して、現世の政治に対する宗教界の影響力は強かった。と言うか、各地方の領主と宗教勢力とが同レベルで競争状態にあった。それを一気にぶち壊して「宗教勢力は現世の政治に口出ししてはならぬ」と世界に先駆けて一線を引いたのは、織田信長の革命的な思想でした。もしも暗殺されなければ、日本でもあのまま絶対王政の時代へと続いていたことでしょう。
そうですね。
歴史作家の塩野七生氏も信長の比叡山延暦寺焼き討ちによって、政教分離が日本で一気に進んだと書いていました。
ヨーロッパではこれに数世紀かかりましたから。