2日まえの8月17日、浜松市民はがんばった。
前日の天気予報でかなり気温が上がるとは聞いていたけど、国内の史上最高気温41.1℃に達するとは思わなんだ。
この暑さはもう天変地異のレベル。
浜松北部ならまだわかるけど、中心部の中区でこれはあり得ない。
「命にかかわる危険な暑さ」ってやつを実感させてもらったぜ。ふ~。
41.1度という気温は、2018年7月に埼玉県熊谷市で観測された国内最高気温と同じだったから、一時は「この記録を塗りかえるのでは?」と全国の期待が集まったけど、幸か不幸かそれはならず。
でもあれ以上暑くなったら、浜名湖が干上がってウナギが全滅していたかも。
浜松の猛烈な追い上げをくらった熊谷市長は「暑さを競うのではなく…」と言ったけれど、「あと0.3度上がっても耐えられた。どうせなら単独日本一になりたかった」と浜松に住む知人・友人70が言っていた。
同じ思いの浜松市民は多いはず。
京都・嵐山モンキーパークで涼む外国人観光客
上の不機嫌そうな人物は、明治を代表する文学者の一人で俳人の正岡子規。
友人の夏目漱石に「鰻丼をおごってやる」と言って誘い出して、その代金を漱石に払わせたというマンガみたいなことをした人。
ちなみに「月並(つきなみ)」という言葉に、「平凡・ありふれた・つまらない」といった意味を加えたのも正岡子規と言われている。
正岡子規にとって暑さは天敵で、「たゞあつし起てもゐてもころんでも」(起きていても寝ていても、どんな姿勢をとってもただただ暑い)という歌を詠んだことがある。
日本の夏を憎む子規のレベルは相当なもので、暑さについてこんなに多くの句をつくった。
「暑さかな八百八町家ばかり」
「あら壁に西日のほてるあつさかな」
「さはるもの蒲団木枕皆あつし」
「頭陀一つこれさへ暑き浮世哉」
「ぐるりからいとしがらるゝ暑さかな」
「なお暑し骨と皮とになりてさへ」
西日の当たった壁もふとんも枕も触るもの全部があつい、という気持ちはいまの日本人でも理解できる。
骨と皮になった体でもなお暑いというのは、子規が病気で寝たきりになったときに作った歌だから、これは同じ立場の人でないと分からないかも。
夏の暑さは文化人にインスピレーションをあたえたから、これを取り上げた歌はたくさんある。
松尾芭蕉は「暑き日を海に入れたり最上川」、萩原朔太郎は「人間に火星近づく暑さかな」と詠んだ。
猛暑が日本の文学や文化を育てた、とも言える。
正岡子規は野球が大好きで、友人の河東碧梧桐から「変態現象」と呼ばれたほど。
「球と球をうつ木を手握りてシャツ着し見ればその時思ほぬ」という子規の歌もある。
夏の暑さは日本の建築文化に決定的な影響をあたえた。
日本には春夏秋冬の四季があるけど、家を建てるときは夏に中心に考えたほうがいい。
鎌倉時代に生まれた吉田兼好が、日本三大随筆のひとつ「徒然草」でそんなことを書いている。
「家の作りやうは、夏をむねとすべし。冬は、いかなる所にも住まる。暑き比わろき住居は、堪へ難き事なり。」
冬はどんなところにも住める。
暑い時期に悪い住居にいるのは耐えられないことだから、家をつくるときは、夏の暑さをむね(中心)に考えるべきだ。
冬の寒さなら着るもので何とかなるけど、夏の暑さはどうがんばっても全裸が限界。
クーラーも扇風機もなかった時代、逃れられない暑さは日本に住む人間の宿命だったから、建物を建てるときはこの対策を重視しないといけない。
その象徴的な建物に京都御所の清涼殿がある。
清涼殿は天皇がプライベートを過ごしたところで、名前からして夏を意識している。
じっさいこの伝統家屋は本当に風通しがよくて、縁側でスイカを食べたらきっと最涼を味わえる。
*清涼殿は時代によって役割が変わっているから、くわしいことは清涼殿を参照されたし。
この建物に「清涼殿」と名付けたことには、日本人の言霊思想が影響していると思う。
納涼床(川床)も夏の暑さが生んだ日本文化のひとつ
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