ミャンマーは親日国ではあるものの、東南アジアの国のなかではきっとラオスと同じぐらい日本での知名度は低い。
でもミャンマーと日本の関係は深くて濃いから、ミャンマー人と話をしていると日本関連ではじめて聞くような話もたまにある。
例えばミャンマー東部にあるインレー湖に行ったときには、現地の日本語ガイドから、この湖にはじめてモーターボートを走らせたのは日本人だと聞いた。
太平洋戦争のとき、日本軍がこの地にヤマハのモーターボートを持ってきたという。
別のミャンマー人ガイドからは、鈴木 敬司(すずき けいじ:1897年 – 1967年)についての話を聞いた。
いまの日本じゃ「敬司」といえば鈴木より武藤の方が有名だけど、日本とミャンマーの歴史に名を残したのは鈴木敬司のほう。
しかも浜松出身だから、ボクにとっては同郷の先輩になる。
ビルマ独立を支援して、「日本版アラビアのロレンス」ともいわれる鈴木 敬司。
日本とミャンマーとの友好関係の基礎を築いたという評価もある。
鈴木はイギリスの植民地だったビルマ(いまのミャンマー)に入って、独立運動をしていた若者30人をスカウトし、日本へ連れてきて陸軍中野学校で軍事訓練を受けさせた。
もちろんそれはボランティアではなくて、戦闘力がアップした彼らがイギリス軍とたたかうことは日本の利益にもなるから。
こうして日本人の特訓を受けたビルマの若者が、のちに「30人の同志」として独立伝説で語られることとなる。
アメリカとの戦争がはじまった1941年(昭和16年)、タイで彼ら30人を中心にビルマ独立義勇軍(BIA)がつくられた。
現在のビルマ国民軍の母体となるこの独立義勇軍には、70人以上の日本人も参加した。
*こうした設立背景があるから、ミャンマー国軍ではいまでも日本の軍歌が歌われている。
この間、ビルマからずっと鈴木と行動をともにしていたのがミャンマーの国民的英雄・アウンサン。
鈴木がビルマ独立義勇軍の司令官になり、アウンサンは参謀となる。
独立運動家で軍人のアウンサンは「ビルマ建国の父」としていまでも国民から尊敬されていて、いまのミャンマーの実質的なナンバーワン、アウンサンスーチー氏は彼の長女だ。
アウンサンは「面田紋次」という日本名を名乗っていたこともある。
アウンサンが描かれたミャンマーの紙幣
この軍服と帽子は日本軍のものだとミャンマー人ガイドから聞いた。
下の新しい紙幣には民族衣装を着たアウンサンが描かれている。
鈴木と共闘していたアウンサンだけど、インパール作戦での日本の敗北を見たことなどから、このままでは共倒れと考え、日本を離れてイギリスにつくことを決めた。
アウンサンにとって最も大事なことはビルマ独立だったからこの判断は当然で、今後のことを考えれば、敗戦確定の日本と一緒にいることはマイナスでしかない。
アウンサンらは今度はイギリス軍とともに日本軍とたたかい、ビルマから追い出すことに成功した。
それでもアウンサンは恩義を忘れてはなく、戦後直後に鈴木敬司がビルマでBC級戦犯として裁判にかけられそうになったとき、アウンサンが猛反対して鈴木は釈放された。
ミャンマーの独立に貢献したことを称えられた鈴木たち旧日本軍人7人は、ミャンマー政府から1981年に国家最高の栄誉「アウンサン・タゴン(=アウン・サンの旗)勲章」を授与される。
日本で訓練を受けた「30人の同志」
ミャンマーがアジアの親日国になった背景をたどると、日本がビルマ独立を後押ししたことやアウンサンと鈴木との友情がある。
ミャンマー在住のジャーナリスト・北角裕樹氏がサライの記事でこう書く。(2020/08/28)
日本軍が撤退してすでに75年が経つにもかかわらず、ミャンマー人はアウンサンと鈴木にまつわるエピソードをよく知っている。ヤンゴンでタクシーに乗ると運転手から「鈴木を知っているか」などと声をかけられることがある。
ミャンマー新札で蘇る日本との絆|アウンサン将軍と鈴木大佐
いまミャンマーでアウンサンの歴史映画が製作されいて、監督は「真摯に独立を目指したアウンサンと鈴木の絆を描きたい」と話しているという。
これは日本での上映もまったなし。
では最後に、鈴木敬司についてミャンマー在住の日本人とミャンマー人にネットで聞いてみたから、そのコメントを載せよう。
〇日本人
・こちらではアウンサン将軍とともにミャンマー独立の立役者だとして有名人です。
歴史に詳しくない人でもその名を知っている人は多いと思います。
今年公開されるであろう映画「アウンサン」では日本の役者さんがその鈴木敬司役をつとめています。
・歴史専攻の大学生がいたので、写真も見せましたが知らないそうです。ヤンゴン在住22年ですが、ミャンマー人の方から、鈴木氏の名前を聞いたことはありません。私はもちろんお名前だけは知っております。
・SUZUKIが90年代にミャンマーに来た時に「ついに4番目のスズキが経済をもたらしてくれに来たのですね」と言われたそうです。
3番目は戦後補償でミャンマーに技術を提供した鈴木。
2番目は戦時中医師として活躍をした鈴木。
そして最初の鈴木が鈴木敬司その人だと言われています。
〇ミャンマー人
・今カンドレーという私が住んでいるところは、1970年代頃までスズキと呼ばれていた。
父の話によって、鈴木さんに敬意を表したことだと分かった。
・もしかしたら、アウンサン将軍と一緒に行動した、ボ モウ ジョーでしょうか?。知っています。
彼のミャンマー名です。
*1941年に「ビルマ独立義勇軍」が組織されたとき、司令官となった鈴木は「ボーモージョー」(雷帝)というビルマ名を名乗ったからミャンマーではこの名前の方が有名かも。
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