【和の日本と個の欧米】教育方法の違い・西洋教育のルーツ

 

「日本の街って、どこもすごくキレイじゃないか?」

日本に住んでいたり興味のある外国人が集まるネット掲示板に、どこぞの外国人がそんな投稿をしたところ、「そう思う。これはすごいことだね」と同意する人が現れ、「日本は学校で行われている教育がわれわれとは違うからだ」という意見に多くの「いいね!」が集まった。

寄せられたコメントの中で、日本と欧米の教育に対する考え方や、方法の違いがわかる興味深い意見があったからそれを紹介しよう。

ただ、日本での留学経験があるこのオーストラリア人の日本語は「とても楽しいかった」という感じに、チョット残念で分かりくにい部分もあったからこちらで修正しておいた。

「留学生として一年間日本の高校に通ったから肌で感じた。掃除のことには賛成。なぜならそれによって、生徒が使った所に対する責任を育てられるから。
それに引きかえオーストラリアの高校には清掃員がいるから、生徒たちはゴミを校庭に捨てっぱなしにする。(みんなじゃないけど、ゴミはたくさんある)
次に日本の教育では、先生を尊敬することがすごく良いところと思う。お辞儀をしたり、ちゃんと「ありがとうございます」と言って尊敬を表す。これは儒教の影響だ。

でも一方で、生徒が自分の意見を先生に言う機会は少ないし、「先生と違う意見を言うのはよくない」という空気があるのはマイナス面だ。そのバランスが難しい。
最後に、クラブに参加するのは疲れるけどいいことだと思う。 クラブでは友達ができるし、ティーンエイジャーの精神には集団への帰属意識が大切だ。そこでは学校の授業では学べないことを習ういい機会になる。」

 

なるほどなるほど。
これを読むとオーストラリアの教育がみえてくる。
ちなみに最後にあった「I appreciate this opportunity. Have a good day.」(日本語で書く機会をくれて感謝します。良い一日を)という結びのあいさつに、気さくなオーストラリア人のらしさが出ていると思う。

日本の学校で英語を教えているアメリカ人やイギリス人などに聞くと、大ざっぱな見方として、日本の教育は独自性より協調性を重視する一方、欧米の教育は集団より個の力を育てることに焦点をあてるとよく言う。
浜松市の小中学校で3年間ALTをしていたアメリカ人は、アメリカでは自分の意見を正確に分かりやすく他人に伝える技術が大事にされるけど、日本では相手や周囲の人の考えを理解することが重要で、その「空気」に自分を合わせていくようだと話していた。

社会が違うから求められる能力や態度も異なるのは当然で、”個”を育てる欧米と”和”を育てる日本の教育はどちらもそれぞれ正しい。

 

さて、教育に対するこんな考え方の違いはどうやって生まれたのか?
先ほどのオーストラリア人にたずねてみるとこんな返事がきた。

「オーストラリアの学校での議論や意見交換は、西洋教育の基本のひとつだ。ご存じかもしれないが、西洋の教育制度は古代ギリシャを元にしていて、ソクラテスの時代から話し合いを通して探究心を育てる教育方法が実践されてきた。これが儒教をベースとした教育との大きな違いといえる。
やっぱり、教育に対する考え方はその国の文化を反映している。

ゴミについて言い忘れたことがある。
ここでは給食がないから、生徒は自分でお昼ご飯を持っていくか、学校の購買で買うことになる。だから包装のゴミが多くなる。生徒にゴミを拾わせるために、どのクラスが最も多くのゴミを拾えるか競争する学校もある。
こちらでも給食があればいいなあと思う。日本の給食は好きだった!」

 

ゴミ拾いは置いといて、現代の西洋教育のルーツは古代ギリシア・ローマ時代にあるという見方はきっと正しい。
スクールやスカラー(学者)の語源はラテン語の「schola」(学校)で、さらにたどるとギリシア語のスコレー「skhole」(余暇、ひま)にいきつくと言われる。

上に出てきたソクラテス(紀元前469年頃 – 紀元前399年)は古代ギリシアを代表する哲学者、さらにプラトンに教えた教育者で、日本の高校世界史では太文字で書かれる重要人物だ。

 

彼に釈迦、キリスト、孔子を加えて「四聖人」といわれる。

「人智の価値は僅少もしくは空無に過ぎない」「最大の賢者とは、自分の知恵が実際には無価値であることを自覚する者である」ことを指摘することにあったと解釈するようになる。

ソクラテス

 

ソクラテスは「アカデミー」の語源となった「アカデメイア」(学校・体育場)で青年を指導していた。

 

プラトンの時代のアカデメイア

 

ちょうどきのう毎日新聞のコラム「余禄」で、ソクラテスについて書いてあったのでチョイと紹介しよう。(2020年10月30日)

フィロソフィア(知を愛する=哲学)という言葉を定着させた…

これが哲学を表す英語「フィロソフィー」の語源になったことは言うまでもないとして、フィロソフィアは短く「愛知」と表現することができる。(ネタじゃなくてホントに)

フィロソフィアを社会に定着させたソクラテスはアテナイという都市国家を馬、そして自分をその馬にまとわりつくアブにたとえた。
アブに刺されると、痛いけど致命傷にはいたらない。
そんなアブ(ソクラテス)が馬(アテナイ)にときどきチクチクするのは、それによって刺激を与えることで馬を活性化させ、進歩に導く目的があったという。

アブが馬を刺し眠らせぬように、彼はアテナイの覚醒のために人々に問答を挑み、説得し、非難し続けるのだと弁明した。それが「賢者」らの無知を問答を通して暴き、自分は自分の無知を知る者だと宣明した哲学者の祖国愛だった

でもアテナイ市民はそんなアブを「うざっ!いらんわ」と思ったのか、ソクラテスに死刑を言い渡し、彼は毒をあおってこの世を去った。

 

「人々に問答を挑み、説得し」というソクラテスの姿勢は、生徒は先生と違う意見を言ってもいいし、西洋ではソクラテスの時代から、話し合いを通して探究心を育てる教育方法がおこなわれきたというオーストラリア人の指摘と重なる。
日本の教育は伝統的に、手本(教科書)の内容や先生の言ったことを暗記することが重要視されてきたと思う。

 

おまけ

「地方紙と共同通信のよんななニュース」に「educate(教育する)」という英語と「教」という漢字の違いについて書いてあるのを発見。(2012.3.8)

(186)「教」 校舎に集め鞭で打ち励ます

これによるとeducateの「e」は「外に」、「ducat」は「導く」の意味で、「もともと人間が自分の中にそなえているものを外に導き出すこと」ということだ。
それに対して「教」の字の成り立ちは、学校の校舎で大人が木の枝やムチで子どもを打って指導するというもの。
それで、「子どもがもともと持っているものを外に導く教育とはずいぶん違(ちが)いますね。」とある。

ただ「educat」と「教」には別の説も聞いたことがあるから、これはひとつの見方と考えてほしい。

 

 

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1 個のコメント

  • >生徒は自分でお昼ご飯を持っていくか、学校の購買で買うことになる。だから包装のゴミが多くなる。
    それでゴミが増えるのは分かりますが、だからといってそれを校庭や床に捨てるというのはどうなんですかね?ゴミ箱に捨てればよいことでしょうに。むしろ、その点はシンガポールみたいに厳しく「ゴミを捨てたら罰則」くらいに社会のルールを教える方がよいのでは?「ゴミを捨てる自由」なんて、生徒の自主性教育とはなんの関係もないですよ。

    日本の場合、江戸時代の教育(町民の寺子屋、武士の藩校)は、町民として生活するために必要な社会のルールや知識をマスターするため(例えば幕府が高札を立てても、それを誰も読むことができなきゃ効果がない)、及び武士(当時の役人)として仕事をするために必要な知識・スキルを身につけるためでした。
    明治以降の一般民衆に対する教育は、まあ率直に言うならば、国民を「富国強兵」の兵士として役立つようにするためですよね。欧米列強に追いつこうと考えた明治の賢人たちによる慧眼だったと思いますよ。

    欧米の教育は、ギリシャ・ローマ時代は確かに個人としての生き方を確立し、議論によって政治を成り立たせるためのものであったかもしれません。ルネサンス以降、現代に至る民主主義社会でもそれは同様です。

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