【真逆の歴史認識】韓国では英雄、日本では“卑怯者”の李舜臣

 

むかし韓国旅行に行くとよく「大元旅館」という、安くてそれなりの内装の宿に泊まっていた。

ここはソウルのど真ん中にあったから空港からのアクセスはいいし、どこに行くにも便利で気に入っていたのだけど、唯一の難点というか複雑な気持ちにさせられたのは、この宿から街の中心部に行くには毎回この像の前を通らないといけなかったこと。

 

 

首都ソウルの真ん中で背後の王宮を守り、日本をにらむようにして李舜臣の像が立っている。

豊臣秀吉がおこなった朝鮮出兵で韓国を守ったとされるこの人物はいまや国民的英雄で、2017年におこなわれた「全国大学生意識調査」によると、尊敬する韓国の人物として文大統領、キム・ヨナ元選手に続いて李舜臣がベスト3に入った。

日本の大学生が尊敬する人物で、安倍前首相を1位に選んだらネットで大祭りが始まりそう。

それはいいとして、この人物について知ると韓国の歴史認識や、韓国の人たちが日本に対してどう思っているのか見えてくるから、高校生が使う歴史教科書の内容を紹介しよう。

このとき李舜臣は倭軍を鳴梁へ誘導して一大反撃を加え、大勝利をおさめた。

陸地と海で再び惨敗した倭軍は、次第に戦意を喪失して敗走をはじめた。朝鮮水軍は逃走する倭船数百隻を露梁の沖でさえぎり、最後の一撃を加えた。李舜臣はこの最後の戦闘で壮烈な戦死をとげた。露梁大勝を最後に7年間にわたった戦乱は終わりを告げた。

「韓国の歴史 (明石書店)」

*倭軍とは日本軍の蔑称。

 

とまぁこんな感じで、侵略者である日本軍を打ち破る、そして国を守った、さらにその戦いで命をうしなったという全韓国人が感動する要素が満載だから、李舜臣は時代を超えていまも大英雄となっている。

でもこんな韓国の歴史認識は、日本では一変してまったく別の李舜臣が浮かんでくる。

 

 

まず李舜臣が日本軍に「一大反撃を加え、大勝利をおさめた」という1597年の鳴梁海戦(めいりょうかいせん)なのだが、朝鮮軍に以下のようなダメージを与えたことによって日本では日本軍の勝利になっている。

朝鮮水軍は非主力艦や根拠地、制海権を失い、唐笥島、於外島、七山島、法聖浦、蝟島を経由し北方の古群山島付近まで後退した。この後、朝鮮水軍は日本の陸軍と水軍の撤退まで再進出できなかった

鳴梁海戦

 

これが韓国では鳴梁大捷と呼ばれていて、李舜臣率いる少数の朝鮮水軍が日本軍に大勝利をおさめた戦いと認識されているのは、さっき歴史教科書に書いてあったとおり。

 

次に「朝鮮水軍は逃走する倭船数百隻を露梁の沖でさえぎり、最後の一撃を加えた」という1598年の露梁海戦(ろりょうかいせん)だが、この戦いでの李舜臣の行動によって日本では「卑怯」のイメージが定着した。

まずこの戦いは、本来なら起こるはずのないものだった。
というのはこのとき日本と中国(明)とのあいだで、相互に撤退することで合意してたから。
*この戦いでの決定権は中国が握っていて、朝鮮にそれはなかった。

これに基づいて小西行長らが撤退を始めると、李舜臣らは約束を破って攻撃を開始。
「逃走する倭船数百隻」という教科書の記述はそのことで、李舜臣に対する印象は、日本ではこれが決定的になる。
韓国ではこの戦いを大勝利と表現する一方、日本では以下の理由から日本軍の勝利とされている。

結局は小西行長軍を取り逃がしてしまった上に、日本側の将クラスの首級を一つも挙げられず、逆に李舜臣、鄧子龍、李英男、方徳龍、高得蒋、李彦良ら諸将を戦死させて失った。

露梁海戦

この戦いで李舜臣が死んだことについては日韓で完全に一致している。

 

参考までに「ニコニコ大百科」の記述ものせておこう。

講和がまとまったため日本も宗主国側も両方が撤退しているのに、これを拒絶して無理に追いかける。
「何だっていい!日本にとどめを刺すチャンスだ!」  → 結果、追撃中に戦死する。

李舜臣

朝鮮水軍の主力艦

 

韓国では「英雄」、日本では「卑怯者」とまったく違う見方がされている李舜臣。
この像がソウルのど真ん中に、日本がやってきた南を向くように建てられた背景には、韓国大統領の日本に対するこんな思いがあった。

朝鮮日報のコラム「萬物相」(2020/11/18)

「日本が最も恐れる人物像を立てよ」という朴正熙(パク・チョンヒ)大統領の指示で1968年に立てられた李舜臣(イ・スンシン)将軍像も広場の中心にある。

また光化門工事…誰が何のために?

 

さてこれで、片鱗ではあるけれど、韓国人の歴史や日本に対する認識が分かったと思う。
オマケに書くと歴史教科書には、日本に勝利した理由としてこうも書いてある。

「わが民族は身分の貴賤や老若男女を問わず、文化的な優越感に非常に満たされていて自発的な戦闘意識をもっていた」

こうした「精神力が国防能力に作用して」日本を撃破したという。
相手国に対する文化的優越感を勝因に挙げる発想は、日本の歴史教科書では絶対に出てこない。

 

死後に贈られた名前は「忠武公」
これはソウル地下鉄の駅名になっている。

 

いまではなつかしい大元旅館

 

 

こちらの記事もどうぞ。

国 「目次」 ①

韓国 「目次」 ②

韓国 「目次」 ③

近くて遠い日本と韓国 「目次」 ①

近くて遠い日本と韓国 「目次」 ②

近くて遠い日本と韓国 「目次」 ③

 

18 件のコメント

  • 多くの先生の文に同意しますが、この文には同意しかねます。
    “この戦いでの決定権は中国が握っていて、朝鮮にそれはなかった。”という言葉には無理があります。
    当時、朝鮮が明(中国)に援軍を要請し、事実上、朝鮮が明を相国として受け入れたのは事実だが、戦争の決定権から完全に排除されたと規定することはできません。豊臣秀吉が死ぬと、小西行長は明提督陳璘にわいろを渡して安全に撤収しようとしたが、李舜臣はそのような決定をした陳璘に抗議します。日本軍の首級をすべて陳璘にあげると約束し、日本軍を攻撃すると要請しました。李舜臣の立場では、朝鮮を焦土と化し、多くの民衆の命を奪った日本軍を素直に送り返すことはできませんでした。そのような人を不確かな約定に基づいて卑怯だとするのは、あまりにも断片的な考えです。

    司馬遼太郎の書いた「坂の上の雲」には、川田功という海軍少佐が退役後に書いた「砲弾をくじいて」という本の話があります。本書で日露戦争(1904年~1905年)当時、世界最強のロシア·バルチック艦隊と戦い、奇跡に近い勝利を導いた日本の英雄、東郷平八郎(1848年1月27日~1934年5月30日)が、バルチック艦隊との対決に先立ち、李舜臣将軍に祭祀を行い、勝利を祈願したという内容が記されています。また、明治維新後、日本海軍が創設された時も、日本海軍は、李舜臣将軍の戦略と業績を研究したとします。 私はそんな日本の徹底した学びの姿勢が恐ろしいほどです。

  • 李舜臣将軍は卑怯なのではなく、朝鮮で誰もできなかった愛国を命を捧げて実行に移した勇気ある軍人でした。

  • 和平交渉は日本と中国で行っていました。
    中国と朝鮮の当時の外交関係では、それは仕方ないことです。

    「坂の上の雲」にはこう書いてあります。

    余談だが、この艦隊が鎮海湾を出てゆくとき、水雷艇の一艦長が、
    「李舜臣提督の霊に祈った」
    という記録を書いていたものがあったように筆者は記憶していたが、それがどの資料にあったのか容易にみつからなかった。

    つまり、「李舜臣提督の霊に祈った」というのは事実か分からないということです。
    李舜臣を名将とたたえる人もいると思いますが、いまでは、約束を破って後ろから攻撃した人物という印象が強いです。

  • 韓国の歴史ではそうなると思いますが、国によって認識は違います。
    ナポレオンもフランスとイギリスでは見方がちがいます。
    豊臣秀吉は日本では英雄ですが、韓国では侵略者で悪者でしょう。
    そんな認識の違いは多くの国であります。

  • 侵略という行為自体が約束を破ることになります。 その当事者に他国の提督と非公式にした約束を守る必要はありません。

  • 司馬遼太郎『坂の上の雲』第6巻(文藝春秋 1972)
     余談だが、この艦隊が鎮海湾を出てゆくとき、水雷艇の一艇長が、
    「李舜臣提督の霊に祈った」
     という記録が書いていたものがあったように筆者は記憶していたが、それがどの資料にあったのか容易にみつからなかった。
     当時、水雷艇第四十一号の艇長だった水野広徳という人が筆達者で、戦後、「一海軍中佐」という匿名で「戦影」(大正三年・金尾文淵堂刊)という本を書き、またこれより前、明治四十四年刊で、「此一戦」(博文館刊)という著者名を明記した本を書いている。この二冊のどこかにあったとおもってさがしてみたが、なかった。
     もう一冊、右の水野広徳とよく似た文体の書物で「砲弾を潜りて」というのがある。著者名は川田功という海軍少佐で、この時期水雷艇の艇付少尉であった。この「砲弾を潜りて」をみると、なるほど主人公が李舜臣の霊に祈るところがある。

  • また私の文を削除したんですね。
    非難に対する批判は双方の悪感情を拡大させるだけです.
    論理的に会話する価値を感じません。
    今まで私が書いたすべてのコメントを全部消してください。

  • 13世紀にモンゴルと高麗が日本を侵略しましたが、日本ではそれを「約束破り」とする見方はありません。
    それと朝鮮出兵での協議は公式のもので、それを破って後ろから攻撃する行為は日本では受け入れられません。
    ですが、韓国には韓国の見方があることは分かります。

  • よくご存じですね!
    ただ「砲弾を潜りて」は小説ですから、その登場人物の話が歴史的事実かどうかは分かりません。ですが、李舜臣に祈った可能性はあると思います。

    個人としてはそんな人もいるかもしれません。
    でも日本の検索サイトで「李舜臣」を検索してください。
    「卑怯」という言葉が出てくるはずです。
    全体的にはやはりそのイメージが強いです。

  • 削除したと言うのはこの文ですよね?

    司馬遼太郎『坂の上の雲』第6巻(文藝春秋 1972)
     余談だが、この艦隊が鎮海湾を出てゆくとき、水雷艇の一艇長が、
    「李舜臣提督の霊に祈った」
     という記録が書いていたものがあったように筆者は記憶していたが、それがどの資料にあったのか容易にみつからなかった。
     当時、水雷艇第四十一号の艇長だった水野広徳という人が筆達者で、戦後、「一海軍中佐」という匿名で「戦影」(大正三年・金尾文淵堂刊)という本を書き、またこれより前、明治四十四年刊で、「此一戦」(博文館刊)という著者名を明記した本を書いている。この二冊のどこかにあったとおもってさがしてみたが、なかった。
     もう一冊、右の水野広徳とよく似た文体の書物で「砲弾を潜りて」というのがある。著者名は川田功という海軍少佐で、この時期水雷艇の艇付少尉であった。この「砲弾を潜りて」をみると、なるほど主人公が李舜臣の霊に祈るところがある。

    同じ文が2つあったので、ひとつを削除しました。
    まったく同じコメントを2つ公開する必要があるのでしょうか。
    それを「論理的に会話する価値を感じません。」と言うのならご自由に。

  • いくら私は解っていますって表向きに言ったところで、
    結局のところ、感情的になるとこうなってしまうんだなぁって改めて感じますね。
    根の奥底は変わらないんだと。

  • 国際法が存在した20世紀にも真珠湾を奇襲攻撃した後に宣戦布告をした日本です。
    国際法がなかったその時期に 小西行長と陳璘の間の暗黙の合意を国際法で見てはならず、李舜臣は真隣の合意に同意しませんでした。

  • 16世紀に国際法はありませんし、関係ありません。
    国家間の合意を李舜臣が無視したのですか?感情的になって約束を破ったのなら、李舜臣は軍人として失格です。
    あなたが日本を卑怯な国と見るのなら、わたしも韓国をそう見ます。

  • 国家間の合意だって?
    小西行長と陳璘との密約に過ぎません。
    李舜臣は王が父の国として仕える明に逆うほど、反逆者ではありませんでした。
    母国を焦土化させた倭軍に対する正当な報復でした。

  • 今、韓国では反日種族主義の虜になった韓国の社会像に対する独自の批判が起きています。
    あなたのこんな考え方は日本人の反韓種族主義の姿です。
    私は、日本人は礼儀正しく、何事にもバランス感覚を持った人だと信じています。
    多くの日本国民はあなたと違う人だと信じたいです。

  • ヤフーで「李舜臣」と入力してください。「卑怯」という言葉がでてくるはずです。
    これは私個人と関係ありません。
    日本の全体的な見方をしめしています。
    国よって価値観や見方は違いますので、李舜臣を英雄と見るのも卑怯者と見るのもどちらも正解です。
    豊臣秀吉やナポレオンを英雄と見ても、侵略者と見てもどちらも正しい。
    多くの日本人は自分と相手の考え方の違いを受け入れます。

  • コメントを残す

    ABOUTこの記事をかいた人

    アバター

    今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。