先日亡くなった元アルゼンチン代表の伝説的なサッカー選手マラドーナ。
マラドーナ選手といえば、1988年におこなわれたサッカー・ワールドカップの準々決勝でみせた「神の手ゴール」が有名だ。
飛んできたボールを頭ではなく手を使ってゴールして、試合後に「手で触れたが、神のおぼしめしにより許された」と言ってのけた。
誤審した審判が悪いのだけど、とにかくこれで“許された”。
こういうときに、「神のおぼしめし(意向・意思)」という言葉が自然に出てくるのがキリスト教文化圏にいる人の発想なんだけど、日本人だったらこういうときにはどんな言い訳をするだろう。
神や仏を持ち出してその「おぼしめし」と言うのは神仏への責任転嫁になるから、たぶんそういう発想はしないで、「たまたま手が当たってしまった」とか「流れの中でそうなった」とか“偶然のせい”にすると思う。
それかノーコメント。
きょねん東ヨーロッパのリトアニア人とロシア人と一緒に富士山を見に行った。
静岡県民として言わせてもらえば、富士山を見ることについて最も大事なことは、当日、天気に恵まれるかどうかのその一点だ。
雨が降らずに晴れだったとしても雲があったら無意味で、例えば富士山が雲に隠れた田貫湖はこんな感じ。
でも、晴れたらこんなん。
家を出たときはかなり良さげな天気でも、数時間のドライブの末に現地へ着いてみたら、雲の向こうにある富士山を全力で想像するしかないという事態には何度も直面した。
だから富士山を見るには澄み切った空がマストなんだが、その日・その時間の天候なんて人間がコントロールできるわけがない。
「日本に来た外国人にキレイな富士山を見せたい」と祈るような気持ちで当日をむかえ、リトアニア人とロシア人とハイキングに行ったときには、さいわいにしてこんな素晴らしい富士山が待っていた。
こういうとき日本人なら「日ごろの行いが良いから」なんて言うけど、海外にもそんな言葉があるのだろうか?
と思ってキリスト教文化圏の彼らにきくと、特にそんな表現はなく、あえて言うなら「神の意思(おぼしめし)」だろうという。
「日ごろの行いが~」という発想の根本には、毎日の行動や態度が良かったら報われるし、悪いことをしていたら悲惨な結果を招くという仏教の因果応報の思想がある。
原因に応じた結果が返ってくるという「因果」の法則が、神道にあるとは聞いたことがない。雨ごいで神に祈るのは神道の発想だけど、当日の天気が晴れるかどうかは神道の思想と関係なさそうだ。
リトアニア人とロシア人の話では、キリスト教にもそんな「因果応報」の考え方がないでもないけど、それよりも、人間の幸・不幸や当日の天気、未来のことなどこの世で起こることは全知全能の神の意思と考えることが普通。
八百万の神々の国・日本ではこういう一神教の考え方は薄い。
とはいえ彼らは宗教心が薄くて無宗教に近いから、雲ひとつない空の下で富士山を見られるのは「偶然」のひと言で済ませてしまう。
いまは世界的に、特に若い人のあいだではこう考える人が多いだろう。
でも日本人の場合、無宗教を自称する人でも「日ごろの行い」と言う人が多い気がする。
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