きょう1月3日はまだお正月でリラックスできる日なんだけど、150年ほど前にさかのぼると、戊辰(ぼしん)戦争がはじまった日でもある。
のちに明治政府の中心となる薩摩・長州・土佐藩らと旧幕府軍が、1868(慶応4)年1月3日に京都で激突。
結果は天皇が新政府軍に味方して、自分が「朝敵」「賊軍」となったことを知った徳川慶喜が戦意を喪失し、1月6日の夜に自軍を見捨てて大坂城から江戸へ退却する。
旧幕府軍は大将と同時に戦闘を続ける理由や目的を失い、各藩は戦いをやめて兵を帰す。
250年以上つづいた江戸幕府は、戦いが始まって1か月しないうちに崩壊する。
幕府及び旧幕府勢力は近畿を失い薩長を中心とする新政府がこれに取って代わった。また旧幕府は国際的に承認されていた日本国唯一の政府としての地位を失った。
大将が逃げ出すというのは、通常ならあり得ないことでも慶喜の場合はいい判断だった。
このとき新政府軍と旧幕府軍が戦いを継続していれば、双方が疲弊することは目に見えているから、そうなって喜ぶのは欧米列強。
どっちが勝ったとしても日本は負ける。
欧米はシャンパンを開けて「ヒャッハー!」と乾杯したはずだ。
だから慶喜の戦線離脱によって、日本が受けたダメージはかなり小さいもので済んだ面はある。
天皇を敵にした時点で幕府の命運は尽きたことを知り、その運命を受け入れた慶喜は最後の将軍にふさわしい。
それでも負けを認めない土方歳三や大鳥圭介ら、数千人の旧幕府軍の勢力が北海道の箱館へ向かい、五稜郭を拠点に榎本武揚をトップ(総裁)としていわゆる「蝦夷共和国」を樹立した。
蝦夷へ向かう旧幕府軍
「兵どもが夢のあと」でいまは観光地の五稜郭
でも、時代は彼らを選ばなかった。
新選組の「鬼の副長」と呼ばれた土方歳三も戦死し、榎本武揚は降伏を決断してようやく戊辰戦争は終わった。
これで江戸時代も完全終了だ。
って思うじゃないですか?
榎本武揚
ラグビーでいえば、試合が終われば「ノーサイド」でかつての敵は仲間となった。
榎本武揚は処刑されることなく、2年半ほど牢獄にぶち込まれていたものの、釈放されたあとは明治政府に仕え、文部大臣・外務大臣・農商務大臣などを歴任して新生日本のために貢献した。
その功績が認められて、榎本は明治政府から子爵の名誉を与えられる。
榎本の才能を高く評価して、牢獄から出すことに奔走したのは旧薩摩藩士で敵将の黒田清隆だった。
とここまで読んできて、読者さんは「いやいや、それは違うだろ」という違和感を感じなかっただろうか。
榎本武揚と同じ元幕臣で、戊辰戦争を見てきた福沢諭吉には許せないことがあったらしい。
勝利の可能性は絶望的でも、幕府のために最後まで戦った榎本武揚について、福沢は「武士道の為めに敢て一戦を試みたる」、「その決死苦戦の忠勇は天晴の振舞」と高く評価する。
そしてそんな榎本を許した明治政府についても、著書「瘦我慢の説」でこう感心した。
「新政府においてもその罪を悪んでその人を悪まず、死一等を減じてこれを放免したるは文明の寛典というべし。」
武士として幕府のために戦った榎本武揚も、敵将を殺さなかった明治政府の対応も「天下の一美談」と福沢が褒めるのはそこまでだ。
榎本は降伏したあと、仕える先を幕府から明治政府にかえて大臣となり、地位、金、名誉を手に入れたことに対して福沢は、江戸幕府に忠義を尽くすという榎本の志に賛同し、榎本のために戦死した仲間の立場になってこう言った。
「降参放免の後に更に青雲の志を発して新政府の朝に富貴を求め得たるは、曩にその忠勇を共にしたる戦死者負傷者より爾来の流浪者貧窮者に至るまで、すべて同挙同行の人々に対して聊か慙愧の情なきを得ず。」(瘦我慢の説)
慙愧(ざんき)の念とは、これまで自分の言動を反省して恥ずかしいと思うこと。
新政府の中で大出世した榎本に、本来なら徳川家に殉じて、世の中の片隅で静かに暮らすべきであったと批判する気持ちから、福沢はこの『瘠我慢の説』を書いて榎本に送って感想を求めた。
榎本の立身出世が許せなかったのだろう。
でも、外務大臣だった榎本の返事は「多忙につき、そのうち返答する」。
政治家がこういう言葉を口にしたあとの展開は想像できると思う。榎本は結局、福沢に返答しなかった。
いま手にしている名誉や富があなたを空しくさせているのだ、という福沢の指摘は、榎本にとっては正論過ぎて痛すぎて、まともに向き合えなかったのだろう。
自分のために死んでいった仲間を持ち出されたら、ぐうの音も出ない。
旧幕府軍のトップとして最後まで戦った人間が、新政府で地位やカネを求めた時点で江戸時代は完全に終わったのだと思う。
とはいえ、榎本武揚は武士だったころの感覚を完全に捨て去ったわけでもない。
1902年に徳川慶喜が公爵となったとき、それを祝福するために旧幕臣が集まってパーティーを開いた。(同窓会ですか?)
そのとき慶喜が榎本と一緒を写真を撮ろうと提案したけど、「主君と写真を撮るなんて、そんな失礼なことはできません」と榎本が辞退した。
これぐらいの武士道はあったらしい。
こちらの記事もどうぞ。
榎本を取り上げた映像はNHKのヒストリアと日テレの年末ドラマの『五稜郭』くらいしか思いつかない。
ラグビーでいえば、試合が終われば「ノーサイド」でかつての敵は仲間となった
会津戦争で会津藩の遺体を1年も野ざらしにして埋葬を許さず藩の住民は下北の僻地に追いやりが今も山口と福島、特に会津との険悪を象徴しているけどね。
過去には会津市長で山口と仲直りしようと打ち上げた現職(それも長期)が締切直前に反対で出馬した新人に敗けた事もあるし。
会津藩士で明治政府に仕えた柴五郎など、恩讐を越えて体外に協力して時代を築きました。
>会津戦争で会津藩の遺体を1年も野ざらしにして埋葬を許さず
この言い伝えですが、新資料が出てきていまでは疑問視されています。
資料を見つけた元会津図書館長は「長州への怨念の最大の要因が取り除かれた。これを機に友好関係を築いてもらいたい」と話します。
誤解から怨念がうまれたというのは残念ですね。
https://www.asahi.com/articles/ASKB24DYRKB2UGTB004.html
> いま手にしている名誉や富があなたを空しくさせているのだ、という福沢の指摘は、榎本にとっては正論過ぎて痛すぎて、まともに向き合えなかったのだろう。
> 自分のために死んでいった仲間を持ち出されたら、ぐうの音も出ない。
うーん、ブログ主さんは政治家に対してどういうイメージを持たれているのでしょうか。
まあ、率直に言って、その程度の指摘で心に痛みを感じて参っているようでは、政治家なんぞになれませんよ。
そのような指摘を受けたら「多忙につき、そのうち返答する」とかわしておいて、後日、かつての主君から『写真を(一緒に)撮ろうと提案したけど、「主君と写真を撮るなんて、そんな失礼なことはできません」と榎本が辞退した』程度の返事が平気でできる、それでこそ政治家としての度量であると思いますがね。
結果論として、新政府の運営と人材輩出に貢献したのだとしたら、それであの時代の政治家としての役割は十分に果たしたものと考えます。武士道は、近代政治家としての仕事には含まれませんよ。
それもひとつの見方ですね。
福沢諭吉は勝海舟も批判してますね。
命がけで仕事をしたことのない福沢諭吉が
命がけで仕事をした勝海舟を批判することに
大いなる違和感を持っています。
尊王攘夷の嵐の中で、洋学を学んでいただけでも命がけです。
「福翁自伝」を読むと、福沢諭吉が命の危険を感じて生活していたことが分かりますよ。
筆者殿の意見は筆者殿個人の見方として尊重は致します。
しかし、榎本の事を本当にご存じなのでしょうか。
多方面からの検証を加えた結果のでしょうか。
公的場で物申す場合は、個人の研究の結果で物申すのは構いません。
しかし、阿部公房の小説でさえ、お読みではないように感じます。
痩せ我慢の説に対してさえ、その背景等検証していませんよね。
ただ読んだ文面からだけしか語っていませんよね。
何故なら、福沢の手紙、その他は背景を色々と調べないと、本当の福沢の
姿や思想が浮かび上がらないのが定説です。
この見解は幼稚を通り越して、人を不快にさせる以外の何物でもありません。
それもひとつの見方ですね。
ただ、「この見解は幼稚を通り越して」の具体的な根拠が、もしあったら教えてください。
「本当の」榎本や福沢をご存じでしたら、それも具体的に教えてください。
決戦前夜に逃げた慶喜が不問にされて徳川に殉じた武が変節と非難されるとは(笑)
しかも明治政府に出仕した理由は蝦夷開拓での旧幕臣の受け入れと、ロシアからの日本防衛を睨んでの事とオモウガナー