日本の社会には敬語の文化があるから、自分と相手の立場や年齢によってつかう言葉を変える必要だ。
ちょっと無茶なことを頼まれたとき、相手が友達なら「しょうがねえな、やってやるよ」でいいけれど、上司にそんな言葉をつかったら別の会社を探さないといけなくなる。
組織がうまく機能するには、そこにいる人たちが気持ちよく活動できる環境が必要で、相手に対する配慮や敬意をしめす敬語にはそのための潤滑油になる。
でも、それは諸刃の剣。
敬語によって人間関係がうまくいくこともあれば、上司と部下、または違う年齢のあいだでは距離ができてしまって、うまくコミュニケーションがとれなくなる場合もある。
そんな事情は敬語文化のある隣国でも同じ。
5年前に韓国を代表する企業・サムスン電子で、社内で社員同士は「さん付け」で呼ぶことがきめられて大きな話題になった。
*日本語の「~さん」は韓国語では「ニム」になる。
これによって例えば、それまで上司を「ムン・ジェイン部長」と呼んでいた新人社員のキムは「ジェイン・ニム(ジェインさん)」と呼ぶことになり、ムン部長も部下を「~ニム」と言わないといけなくなった。
*でもこのへんの事情はいま現在、どうなっているのかはよく分からず。
サムスン電子が立場や年齢、勤続年数などにとらわれず、社内で自由にコミュニケーションできる文化をつくろうとした理由は、“生き残るため”だった。
朝鮮日報の記事(2016/06/28)
サムスンが社内文化を革新しようとしている背景には危機感の存在がある。上部の指示に従うだけのトップダウン方式の組織では、急速に変化する情報技術(IT)産業で他社と競うのが難しいと判断したものだ。
「サムスン電子、「さん付け呼称」導入で組織文化を変革へ」
IT産業の分野では世界最先端をいく、米シリコンバレーにある有名企業では社内の役職などをなくして、「誰でも自由に意見を交わせる文化が定着している」と記事にある。
(シリコンバレーの会社でもインド人社員のあいだでは、カースト制度の影響があって「誰もが平等」というわけではない)
「~課長」「~部長」の呼称はやめてすべての社員を「~さん」で呼び合うべき、という意見は日本の中にもあるから、このへんの文化はやっぱり、歴史的に儒教の影響を受けてきた日本と韓国はよく似ている。
でもこれはどうか?
朝鮮日報の記事(2021/01/18)
「ため口は駄目」…韓国陸軍の元士らが参謀総長に反旗
韓国軍のお偉いさん(陸軍参謀総長)が会議で、こんな発言をしたことで一部の軍人が激怒した。
「年齢で生活する軍隊などどこにもありません」
「若い将校が年上の副士官にため口で命令や指示を行う際、なぜため口を使うのかと指摘するのは、軍隊の文化においてあってはなりません」
「将校が副士官に尊敬語を使用する文化、それは感謝することと考えるべきです」
それなりの理由や事情があるとはいえ、「年下だけど上の立場の人間」からため口で指示されるとどうしてもムカつく。
まぁその気持ちは日本人にもよく分かる。
でも今回韓国ではこの発言によって「人権を侵害された」と、陸軍の軍人が国家人権委員会に陳情を行ったことが分かって大騒ぎになった。
軍隊は国民の生命と財産を守るために存在するのだから、その大義の前では、敬語の有無なんて大した問題ではない。
いやいや軍隊内でこそ、礼儀や敬意はとても大事にされるべきでそのために敬語は必要だ。
こんな賛否両論は日本の組織でもありそうだけど、「ため口」については欧米社会ではなさそうだ。
記事によると、米軍ではこんな問題は存在しないらしい。
米軍など英語を使用する外国の軍隊の場合、尊敬語を使用しない言語の特性上、ため口が問題になることはないという。
これは個人的な経験なんだが、これまでの韓国人との付き合いを考えると、相手が年上なら日本人以上に配慮や遠慮をして、それが言葉や態度にあらわれる。
「飲みにケーション」は韓国でも盛んで(たぶん日本以上)、お互いに酒を飲んで仲良くなるけれど、その席にはいろんな“ルール”があって、例えば先輩や年上の人の前でお酒を飲むときには、飲むところを見せない。
顔を横に向けて手で口元を隠して飲んで、先輩が「あー、そんなことしなくていいから」と言うとそれ以降はふつうに飲む。
それでもちょっと顔を横に向けて、目上の人と「対面」で飲むのを避ける韓国人が多い。
*ただこのへんは配慮や遠慮のほかに、「メンツ」も関係していると思う。
「韓国人がメンツを失うと、男は死んで女は激怒します」という知人の韓国人の言葉は、きっと半分あたってる。
こういう上下関係や礼儀が重視される韓国社会で、たぶんそれが最も厳格な組織・軍隊の中で「敬語・ため口」の壁が崩れるとしたら、これは大きな変化だ。
でも、年下の人間からため口を使われることが「人権侵害」として、国家人権委員会に陳情されるぐらいなのだから、軍隊内の空気が革命的に変わることはないだろう。
韓国や日本の社会では、敬語を使わずに相手に敬意をしめし不快感を与えない、というのはかなり高度なテクニックが必要になる。
ところで自衛隊の中での「ため口」はどうなのか?
こちらの記事もどうぞ。
> 「年下だけど上の立場の人間」からため口で指示されるとどうしてもムカつく。まぁその気持ちは日本人にもよく分かる。
> でも今回韓国ではこの発言によって「人権を侵害された」と、陸軍の軍人が国家人権委員会に陳情を行ったことが分かって大騒ぎになった。
> ところで自衛隊の中での「ため口」はどうなのか?
ははは、日本の自衛隊はその程度のことが問題になるほど前近代的じゃありませんよ。これは韓国だからこそ。
この問題は、韓国と日本とでの敬語の仕組みに違いがあることが関係してます。韓国の敬語は「絶対敬語」であり、自分たちを含めて会話中の登場人物に何らかの序列(多くの場合まず年齢)を会話の最初に確立して、以降その関係は変化しません。上の立場の者へは「尊敬語」を、下の立場の者へは「卑下語」を使います。この社会通念上の「序列」が軍隊組織の「階級」と矛盾する場合が時にはあるので、このような問題が起きることもあります。(一部東南アジア諸国での敬語の用法も、おそらく韓国と同じです。)
これに対して、日本の敬語は「相対敬語」であり、基本的に「相手を立てる」ことが基本です。どちらも相手に向かって尊敬語を使う場合もあるし、たとえ尊敬語でなくても、(相手に向かって)丁寧語を使ったり、自分のことを話すのに謙譲語を使ったりして、相手への敬意を示します。また、たとえ地位の高い者であっても身内であれば、会話の相手に対しては謙譲語を使って表現します。相手を立てることが基本なのであり、社会での序列は問題じゃありません。
韓国では「私どもの社長様はあちらにいらっしゃいます」、日本では「私どもの社長はあちらでお待ちしています」という違いがあるのです。
さて、軍隊組織においては「階級」という序列は絶対であり、それは年齢とは関係ありません。どれほど古参の兵士でも若い将校には必ず敬語を使います。反対方向には命令口調です。これは欧米でも同じことです。「サー、イエス、サー!」「イエス、マダム!」と言うように。日本の自衛隊、警察、消防、あるいは海外の軍隊でもこの原則は全く同じで、その秩序が破られることはありません。社会通念上の慣習が軍隊組織と矛盾することをいちいち目くじら立てるようでは懲罰ものです。