きのう2月26日は「脱出の日」だった。
皇帝となったナポレオンが戦いに負け、囚人としてエルバ島へ流される。
しかし、1815年2月26日エルバ島を脱出したナポレオンは、パリへ入城し再び皇帝として即位する。と思ったら、すぐに戦争に負けて再び囚人としてセントヘレナ島へ送られて、その地で忙しすぎる人生を終えた。
そしてきのうは、まんま2・26事件が起きた日でもある。
85年の前のこの日、「世の中を良くするため、そして天皇のために悪人を斬る!」と青年将校が決起したものの、実際には昭和天皇を激怒させたというガッカリなクーデタが発生した。
「脱出の日」と「2・26事件の日」ということなんで、これから後醍醐天皇について書いていこうと思う。
この人のアップダウンな人生はナポレオンと似ている。
1288年に生まれた後醍醐天皇が天皇に即位したのは1318年、31歳という気力・体力に満ち満ちていたときだ。
ちなみに30代での即位というのは、1068年の後三条天皇(36歳)以来、250年ぶりのこと。
ただ当時の日本は武士が支配する世の中で、天皇はいるけど、ほぼそれだけの存在。
京都にいた天皇は名目上の君主で、実際に力を握って日本を動かしていたのは関東の鎌倉幕府だ。
ヨーロッパ史でいうなら「国王は君臨すれども統治せず」の状態で、16世紀のポーランド・リトアニア共和国をはじめとし、イギリスやドイツでもこんな時代があった。
くわしいことは 黄金の自由 を。
若さゆえか、「お飾り」を嫌った後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒し、自分が最高実力者となって日本を治めようと考え、1331年に三種の神器をもって挙兵する。が高速で幕府に捕まった。(元弘の乱)
前天皇の花園院から「王家の恥」「一朝の恥辱」とボロクソ言われた後醍醐天皇は、幕府の取り調べに対し、「天魔の所為(悪魔のせいで、自分の責任ではない)」などと意味不明な供述をして、何として許してほしいと訴えたという。
幽閉中の後醍醐天皇を訪ねる皇后の西園寺禧子
「あんた何やってんのよー」というレベルじゃない。
天皇として立場は将軍よりも上ながら、武力で幕府を倒して政治権力を奪おうとするのは、2・26事件と同じクーデタのようなもの。
実質的な国の支配者である将軍(幕府)を倒そうとして、それに失敗したのなら、事件の主要人物はもれなく処刑されてもおかしくない。
むしろこの時代ならそれが世界の常識。
中国で王朝転覆計画がバレたら、その首謀者は身体中の肉を少しずつ切り落とす、恐怖の「凌遅刑(りょうちけい)」で処刑されたはずだ。
鎌倉幕府は元弘の乱で、後醍醐天皇の腹心だった日野資朝(ひのすけとも)は処刑した。
「古来一句 無死無生 万里雲尽 長江水清」
(古来の一句 死も無し生も無し 万里雲尽きて 長江水清し)
こんな句を残して日野はこの世から消える。
でもやっぱり、幕府は後醍醐天皇の命を奪うことはできなかった。
「天皇は殺せない」というのが日本史の法則で、この国では一度も革命が起きていない。
2・26事件では世の中を変えるために、青年将校は天皇のまわりにいる悪い奴らを殺害しようと考え、実際にそうしたが、天皇に危害を加えることは一切思わなかった。
ふれてはいけない存在だから。
元弘の乱のときもこの「法則」が発動して、後醍醐天皇は殺されることなく、いまの島根県にある隠岐島(おきのしま)に流された。
だがしかし、1333年に隠岐島から脱出することに成功した後醍醐天皇は、討伐軍の足利高氏(尊氏)を味方にして京都へ凱旋し、天皇として権力を手にして「建武の新政」をはじめた。
このへんの流れはナポレオンとそっくり。
囚人として生活していたエルバ島を脱出しパリへ戻って、再び皇帝となったフランスの英雄と同じ。
その後ナポレオンは戦いに負け、セントヘレナ島に流されてそこで生涯を終えた一方、このあと足利尊氏との戦いに負けた後醍醐天皇は京都を抜け出し、吉野へ入って南朝政権を樹立した。
そのまま吉野で病没した後醍醐天皇の最後のことばからは、「死も無し生も無し」という淡々とした腹心とは違い、執念や憎悪といったドロドロした感情が伝わってくる。
「ただ生き変わり死に変ってもつづく妄念ともなるべきは、朝敵をことごとく滅ぼして、四海を太平ならしめんと思うばかりなり。これを思うゆえ王骨は身はたとえ南山の苔に埋るとも魂魄(こんぱく)は常に北闕(けつ)の天を望まんと思う」
ということで、ナポレオンと後醍醐天皇の人生後半の流れを書くとこうなる。
ナポレオン:皇帝→囚人→脱出→皇帝→囚人→死去
後醍醐天皇:天皇→囚人→脱出→天皇→死去
最後まで天皇でいられた点では、後醍醐天皇はナポレオンよりもラッキーだった。
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確かに、皇帝あるいは天皇になって以降の生涯ではこの2人は似ていると言えるかもしれません。ですがもともと出自のレベルが違います。後醍醐天皇はいくら鎌倉幕府に実権を奪われていたとはいえ、仮にも「天皇家」の正式な後継ぎであったわけですからね。周囲にはその「毛並みの良さ」を担ぎ上げる人やそれにひれ伏す人も、当初からたくさんいたことでしょう。
それに比べてナポレオンは、コルシカ島に落ちのびていた没落貴族の息子ですから。非常に努力して兵学校で優秀な成績を収め、軍隊でその能力を発揮して、最初から決して周囲に持ち上げられることなく自分の実力で皇帝の地位を勝ち取ったのです。
また、時代背景も大きく違います。きっと、皇帝ナポレオンは、その後の民主主義における大統領制や議院内閣制が確立しつつある過程において、その当時のフランス社会が「試行錯誤的に」登場を望んだ人物だったのでしょうね。その意味で、近代民主主義とは、多くのフランス人たちの犠牲を払った社会実験から生み出された社会制度であると言えると思います。それこそ、超ノーベル賞級の発明と言ってもいい。
2人の人生のどの部分を切り取るかで、共通点があれば相違点もあります。
「生まれ」に着目すればまったく違いますね。