「こんど富士山を見に行くけど、一緒に行きたい人いる?」とメールで声をかけたところ、何人もの外国人が食いついたので彼らを連れて見に行った。
高速道路を走っている途中に寄ったのが、焼津のパーキングエリア。
焼津はむかしから魚の町として有名で、特にマグロの水揚げは日本一を誇る。
焼津と書いて「まぐろ」と読んでも市民はきっと気にしない。
そんな焼津のPAに寄ったあと、東ヨーロッパのリトアニア人とバングラデシュ人に、『日本と核被害』について話をきいたところ、第二次世界大戦のとき、広島と長崎で多くの犠牲者がでたことは知っていた。
これは世界中の学校でならうことだから、海外の外国人にもよく知られている。
では1954年に焼津を中心に起きた、第五福竜丸の事件についてはどうか?
静岡県に住んでいるリトアニア人とバングラデシュ人が「初耳です」というこの悲劇を、いまでは知らない日本人も多いかもしれない。
「歴史を忘れた民族に未来はない」ということばがあるそうだから、今回はこの事件を紹介しよう。
第五福竜丸
きのう3月1日は「ビキニ・デー」だった。
ビキニといっても水着じゃないよ、そういう場所のことだよ。
1954年に焼津港を出たまぐろ漁船「第五福竜丸」は3月1日、アメリカが水爆実験をおこなった太平洋のビキニ環礁の近くにいた。
この日にアメリカがおこなった核実験、キャッスル作戦(ブラボー実験)では広島に投下された原子爆弾の約1,000倍の核出力の水素爆弾が炸裂したという。
その映像がこれだ。
このときアメリカが設定した危険水域の外にいたにもかかわらず、第五福竜丸の船員は死の灰を浴びてしまった。
もちろん犠牲者は日本人だけなく、この水爆実験での被ばく者は2万人を越えるといわれる。
船員は何時間もの間、放射性物質を浴びながら作業を行い、強い放射能汚染のある状態で航行をつづけて、2週間後の3月14日に焼津港へ戻った。
放射線による火傷、頭痛、嘔吐、出血、脱毛などの症状が出た船員は「急性放射線症」という診断をうけ、その中のひとり久保山愛吉(くぼやま あいきち)が9月に死亡する。
この事件を大きくしたくないアメリカと、敗戦からの経済復興で米政府の協力が必要だった日本政府が話し合い、“何となく”合意して事件は政治的にはこれで終了。
アメリカ側も200万ドル(当時で約7億2,000万円)を支払うぐらいの誠意は見せた。
久保山の死を聞いて泣き崩れる母と妻
当時、焼津ではこんな風評被害が発生した
広島・長崎とこの第五福竜丸事件によって、日本は原子爆弾と水素爆弾の両方の被害をうけた地球上唯一の国となった。
それを知ってリトアニア人とバングラデシュ人がびっくり。
「原水爆による犠牲者は、私で最後にしてほしい」という久保山愛吉の遺言は、日本で反核運動が始まるきっかけとなる。
こんな悲劇から、3月1日はビキニ・デーとして原水爆禁止運動の記念日となった。わけだが、この日や事件を知っている日本人はいまどれだけいるのやら。
第五福竜丸事件が、日本社会にすさまじいに衝撃を与えたことは言うまでもない。
「ビキニ環礁海底に眠る恐竜が水爆実験の影響で目を覚まし、日本を襲う」という着想から、映画『ゴジラ』がうまれたのだから。
『水爆』大怪獣にはワケがある
築地市場にある(あった?)第五福竜丸のプレート
焼津のマグロは最高なんで、バンバン食べちゃってください
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> きのう3月1日は「ビキニ・デー」だった。
> ビキニといっても水着じゃないよ、そういう場所のことだよ。
ところが、そうとも言い切れないんです。太平洋戦争後、米国とソ連の核兵器開発競争のさなか、戦後に初めて実施された米国の原爆実験の場所が、後日の水爆実験が実施されたのと同じ「ビキニ環礁」だったのです。その原爆にちなんで、フランス人のファッション・デザイナーが「原爆と同じように、見た目は小さなサンゴ礁のような水着だけれども、周囲の目には破壊的な影響を及ぼす」という意味で、「ビキニ・スタイル」という名前をつけたのです。そのビキニ水着を日本へ大流行させたのが当時のハワイ出身日系グラビア・モデルである「アグネス・ラム」でした。確かに若い頃の私の目には、あの水着は、脳天を破壊するほどの衝撃力がありましたね。
さて、この件で、あまり浮ついた話ばかりしているのもどうかと思うので・・・。
> このときアメリカが設定した危険水域の外にいたにもかかわらず、第五福竜丸の船員は死の灰を浴びてしまった。
> もちろん犠牲者は日本人だけなく、この水爆実験での被ばく者は2万人を越えるといわれる。
米国の設定した危険水域が適切でなかった理由は、事前に計算していたはずの水爆の爆発力を完全に見誤っていて、実際には想定していた2倍以上の規模の爆発が生じてしまったからだそうです。第五福竜丸だけでなく、近くのサンゴ礁や島嶼の住民にまで被曝が及んでしまったのだとか。つまり、水爆の安全性に関する設計ミスだったのです。
それから約60年を経過した21世紀に入ってから、東洋のとある島国では、原子力発電所の安全性に関する設計ミスが元で、周囲の多くの人々に被害を及ぼす悲惨な大事故を引き起こしてしまったのですね。
大きな力を扱うエンジニアは、どこまでも慎重に、安全確保を旨とすべきです。