【西と東の処刑法】慈悲あるギロチンと、最も残酷な凌遅刑

 

4月25日の記念日は、「こんな日があるとは!」と思ってしまったギロチンの日。

*今回はフランスと中国の処刑法について書いていくので、それなりの心の準備を。

 

 

大きな刃物を落とし、一瞬で首と胴を切り離すこの処刑法が登場するまで、フランスでは死刑執行人がオノや刀で囚人の首を切断していた。がアニメや映画のように、一刀で終わるかどうかは処刑人の“テク”にかかっていたため、なかには何度も囚人の首に斬りつけることもあった。

そんな痛オソロシイ処刑法が一変したのはフランス革命のとき。
このころ処刑される人間が毎日何百人も出てきて、「できるだけ痛みや苦しみを与えずに、あの世に送る手段はないものか?」と内科医で議員でもあったギヨタンが考え抜いて生み出されたのがギロチン。
だからある意味これは慈悲の結晶ともいえる。
仏教的な慈悲とは他者の命に楽を与え、苦を取り除くことを指すのだから。

1792年4月25日、フランスで初めてギロチン処刑が行われたことから、この日がギロチンの日という記念日になっている。
本人はホンキで嫌がったにもかかわらず、ギヨタンの名前からギロチンという呼び名が定着してしまった。

この処刑道具の犠牲者で有名な人物に、「余は無実だ!」という訴えがガン無視され、1793年に首を切断されたルイ16世がいる。
その後、妻マリーアントワネットもギロチン送りにされた。

1981年にフランスで死刑制度が廃止されると、同時にギロチンもその役割を終え博物館へ送られた。

 

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王妃マリー・アントワネットと、ギロチンで処刑される場面

 

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当時のフランス人の感覚で、処刑は言ってみれば“ショー”のようなもの。
革命時にギロチン処刑が行われると、それを見るため大勢の人たちが集まって、そうした人を相手にワインやお菓子を売る人まで現れたのだから。
いまなら『グロ注意』を超えて目視できない残酷なことでも、この時代の人にとっては見世物のひとつ、言い方は不謹慎だがエンターテインメントのひとつだった。

 

できるだけ苦痛を感じさせないギロチンが慈悲のある処刑法なら、その反対は最も残酷なものになるのは必然。
中国史でいうならそれは凌遅刑(りょうちけい)だ。
王朝を倒すとか皇帝を殺害するなどの大罪を犯した人間には、中国人が考え出したこのもっとも恐ろしい刑罰が適用される。
凌遅刑とは人を柱に固定して刃物でその体を少しずつ切り取っていき、激しい苦痛をできるだけ長く与えながら絶命させる処刑法のこと。
中国と朝鮮半島にあったもので、これは日本にはなかった。
とはいえ日本は日本で、江戸時代にはかなりヒドイ方法で囚人を殺していた。
数百年前の世界に、「死刑囚の人権」という未来の概念を当てはめるのは無理がある。

罪人の肉片を切りとって死にいたらしめる、生きながら徐々に殺すというこの凌遅刑は、数千年の中国史において最も残酷で苦痛に満ちた処刑法で、その発想と目的はギロチンの真逆。

この刑罰を受けた有名人に、劉瑾(りゅう きん:1451年 – 1510年)という宦官がいる。
国を私物化し、好きなだけ金を使って贅沢三昧の生活をしていた劉瑾は皇帝の地位を奪おうとするも、その計画がばれて凌遅刑を宣告された。
記録によれば劉瑾は、一日目に3000刀ほどを加えられても死なず、その夜は粥を二杯を食べ、二日目に400回ほど体を切り刻まれてやっと死亡した。
2日で計3,357刀を加えられたという。
死亡後に没収された劉瑾の財産は明の歳入の10年分に値するほどだった。
参考に(もならないが)、2020年の日本の歳入は約103兆円だから、劉瑾は1030兆円の個人所得をもっていたこなる。
当時の中国の感覚では、これは3357回切り刻んで殺すに値するらしい。

 

この刑で殺された、すさまじくかわいそうな人物に洪 天貴福(こう てんきふく:1849年-1864年)がいる。
清に反旗を翻し、太平天国という国をつくった洪秀全の長男だった天貴福は、運命として父のあとを継いで太平天国の第二代天王(いわば国王)となる。
天王であった期間はわずか4カ月。
でも清がこんな大罪人を許すはずもなく、彼は15歳のほどの若さで凌遅刑を告げられ、少しずつ肉を切り取られてやがて絶命した。
もともと天貴という名前だったのを、後に「福」の字が加えられて天貴福となったのに、彼の人生の終わりは中国人としては最低最悪のものだった。

こう見るとギロチンという処刑法は、見た目はオソロシイけど実は慈悲が込められている。

ちなみにネットで検索すると、凌遅刑の写真がけっこうたくさん出てきてビビった。
「冬至の中国人はこういう記録を残していたのか」と思ったら、西洋人がお土産として、この超絶グロ映像のあるポストカードを買っていたらしい。
このへんの感覚はワインを飲みながら、首が切断されるのを見ていた時代とあまり変わらない?

 

 

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3 件のコメント

  • ギロチンというと、当時のパリの死刑執行人シャルル・アンリ・サンソンの悲劇的なエピソードや、その孫アンリ・クレマン・サンソンの破茶滅茶なエピソードがまず思い浮かびますね。

    凌遅刑の方は私が聞いた話では、最初に何回切るかが決められており、刑死後も規定の回数まで死体を切り刻み続けるのだとか。

    こういったギロチンと凌遅刑の違いは、政治体制や文化、宗教等も絡んでくるので、良い悪いは一概には語れませんね。
    唯一共通して言えることは、こんな死に方はしたくないという所でしょうか。
    どちらか選べと言うなら即答でギロチンですけど。

  • > 中国史でいうならそれは凌遅刑(りょうちけい)だ。
    (途中省略)
    > 中国と朝鮮半島にあったもので、これは日本にはなかった。
    そうでもありませんよ。
    日本の「凌遅刑」的な行いで有名な方法として「鋸引きの刑」があります。これは、罪人のクビをノコギリで徐々に切り落として殺す方法です。比較的よく知られているエピソードとしては、戦国時代の末期、三河国で領主徳川家康を裏切って武田信玄に内通したことがバレて「鋸引きの刑」に処された「大賀弥四郎」の例があります。隣国との境界付近の街道に全身を首まで埋められて、通行人に首を鋸で切らせることで処刑したとか。丸一日は生きていたそうで、苦しかったでしょうね。

    ギロチンは、罪人にできるだけ苦痛を与えず首を跳ねるという人道的な(?)処刑方法だったわけですけれども。日本には必要ありませんでした。
    というのも、江戸時代を通じて、首を跳ねる処刑人は「山田浅右衛門(役職名)」という武士が務めているからです。TVドラマにもしばしば登場しますが、罪人の首をズバッと跳ねる処刑人です。新造の日本刀に対する「試し切り」を行う役割をも担っていたのだとか。戦争がなく平和だった江戸時代には、おそらく、山田浅右衛門ほど人体を切断する技量に優れた人物はいなかったでしょうね。たとえ居合道の本家であっても、実際に人体を切る経験は、それほど無かったはずですから。

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    今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。