きょう2月1日は1662年に、鄭成功さんが台湾の安平古堡を陥落して台湾の統治を始めた日。とネットでいま知りますた。
鄭 成功(てい せいこう:1624年 – 1662年)は明の時代の軍人で政治家で、「福松」という餃子店みたいな日本名を持つこの人物は、台湾や中国では民族的英雄としてメチャ尊敬されている。
鄭成功
鄭成功が生きた15世紀、中国では李自成が明を滅亡させて、「順」という新王朝をスタートさせる驚天動地の出来事が起きた。
ただ順は1644~49年の5年間しか存在してなくて、中国の歴史の中ではセミの一生のような一瞬のことだから、普通は無視されて明の次の王朝は「清」になっている。
でも明が消滅したというのは、当時の中国人には天地がひっくり返るような衝撃的なこと。
その後、明の皇族だった人たちは亡命政権を作って抵抗する。
鄭成功はその亡命政権の隆武帝(りゅうぶてい)に忠義を誓い、明王朝の復興に全人生をかけた。でも、清との戦いで隆武帝の軍勢は敗北し、隆武帝は亡くなってしまう。
父親は清に降ってしまったから、ある中国人は「清に投じて民族のくず。」とボロクソ書く。
しかし、鄭成功はあきらめない。
名前が名前だけに彼の人生に「ギブアップ」なんて文字はなく、中国各地を転々としながら清と戦い続けた。
拠点を築いて勢力を立て直すため台湾を占領しようと考えた鄭成功は、当時そこを支配していたオランダ人のいるゼーランディア城を攻撃し、1662年2月1日に陥落させた(ゼーランディア城包囲戦)。
オランダ勢力の駆逐に成功した彼は台湾に鄭氏政権を樹立し、清朝を倒して明朝を復興する「反清復明」を掲げる。が、その夢の途中で力尽きてこの世を去った。
清の攻撃を受けて鄭氏政権も1683年に降伏して、鄭氏一族による台湾統治は23年間で終了。
ちなみに鄭成功らが江戸幕府に支援を求めた行動を日本乞師(にほんきっし)という。でも、日本が軍事支援をすることはなかった。
「反清復明」は結果的には失敗に終わったワケだが、異民族の清を倒して漢民族の明を復活させるという鄭成功の夢は、同じ民族であるいまの中国人や台湾人の共感を呼ぶしかない。
それに鄭氏政権は漢民族による初めての台湾統治だから、その意味でも鄭成功は台湾で特に尊敬されていて、孫文や蔣介石とならぶ「三人の国神」の一人とされている。
中華の英雄・鄭成功と日本との結びつきはけっこう深いのだ。
鄭成功と会って、「なにこのイケメン(眉目秀麗)」と気に入った隆武帝は、明の創始者・朱元璋にちなむ国姓の「朱」を与えた。以来、彼は「国姓爺」と呼ばれるようになる。
明の復興運動に生涯をかけた鄭成功をモデルに、近松門左衛門が「国姓爺合戦」という作品を作り、人形浄瑠璃や歌舞伎で上演されて江戸時代の日本で大人気となる。
そんな鄭成功は日本の平戸で中国人の鄭芝竜と日本人の母親(田川マツ)との間に生まれ、「福松」という日本名を付けられた。
*いまでも長崎(平戸)では毎年7月に「鄭成功まつり」をしていて、台湾から鄭成功の子孫がやって来るらしい。
平戸で幼少期を過ごした鄭成功は家族と一緒に7歳で福建へ渡り、その後、「反清復明」をライフワークとする。成功と行動を共にしていた母親のマツは、1646年に清軍に攻め込まれた時に自害した。
現在の台湾と中国で鄭成功は「知らないなんてあり得ない」というレベルの有名人なんだが、彼が中国人と日本人とのハーフということを知ってる人に出会ったことがない。
いままで聞いてみた台湾人と中国人は全員知らなかったし、「ええっ!そうなんですか!」とけっこう衝撃的に驚く。
近松門左衛門の「国姓爺合戦」を知らないのは想定内だったけど、鄭成功のルーツを誰も知らないとは。
ただ台湾旅行に行って、現地でマツも大切されていると聞いて感激した日本人もいるから、彼がハーフであることを知っている台湾人もいないことはない。
でも日本に来た台湾人と中国人に聞くと、みんな初耳でもれなくビックリする。
まわりの日本人に聞いても、かろうじて鄭成功を知ってる人がいるだけで、母親が日本人ということは未知の世界にあった。
日中台の間でこの事実と、最後まで息子の夢を支えた田川マツのことはもっともっと知られていい。
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