きょう2月4日は「ぷよの日」。
セガがゲームソフトの「ぷよぷよ」をPRするために、こんなほのぼの記念日をつくったらしい。
で、トキは120年ほど前にさかのぼって1904年のこの日、2月4日はまさに全日本人にとって運命の日となった。
日本政府はロシアとの交渉を打ち切って、外交関係を断絶し、独自の軍事行動をとることを確認する。つまり、日露戦争の開戦が決まった日だ。
その結果は、
「なんと偉大な勝利であろう。自分は陸戦においても海戦においても歴史上このような完全な勝利というものをみたことがない」
とイギリスの海軍研究家ウィルソンが感嘆した日本海海戦での勝利や、激戦の末に旅順を攻略した日本の勝ち。
ただ日本が負ったダメージもデカかった。
満身創痍で何とかつかんだ勝利だったから、アメリカで結ばれたポーツマス条約では賠償金を得ることはできなかった。
でも日露戦争で負けていたら、日本はロシアの植民地になっていただろうし、となるといまごろ、「ぷよの日」を制定する余裕もなかったはず。
日露戦争で有名になった203高地
小さなサムライが巨大な白クマとの決戦をきめた理由は何か?
それは、朝鮮半島がロシアの影響下に置かれることは日本の安全保障上の脅威になる、日本の独立を保つことさえ危機的な状況になると日本が判断したから。
自衛のためにロシアとの一戦を覚悟したことは、明治天皇の『露国ニ対スル宣戦ノ詔勅』で「韓國ノ存亡ハ實ニ帝國安危ノ繋ル所タレハナリ」と書いてあることからも分かる。
一方のロシア側では、満洲での利権(租借権・鉄道敷設権)を確保するため、朝鮮半島での利権拡大にジャマな日本を排除するため、といったことを戦争の動機とした。
日ロ双方にとって重要なことは、朝鮮半島(大韓帝国)をどちらの“モノ”にするか?ということ。
このころの世界は無慈悲で冷酷だ。
弱肉強食の帝国主義の時代において、「日本とロシアは大韓帝国の自主・独立を尊重して、手を出すべきではなかった」という人は永遠のお花畑をさまようしかない。
歴史教科書でこの絵を見た人も多いと思う。
これは1894年に日清戦争が始まる直前の朝鮮半島と、その周辺国の様子を表した風刺画でタイトルを「魚釣り遊び」という。
日本と中国(清)が朝鮮という「魚」を釣り上げようとしていて、それを横からロシアが奪おうとチャンスをねらっている。
このときの欧米列強には韓国の立場を尊重する意思はほとんどなく、韓国はいずれこの3者の誰かのものになるとみていたのだ。
この中で日本に負けた中国は脱落して、日ロが激突することとなる。
日露戦争で日本の勝利が確定的になると、アメリカ特使のタフトと外務大臣の桂太郎との間で話し合いが行われた。
「大韓帝国政府が日露戦争の直接の原因である」という桂の指摘を受け入れて、タフトは朝鮮半島での日本の指導的地位を認める。で日本は、アメリカの植民地となっていたフィリピンに手を出さないことを約束する。
大韓帝国が日本の保護国となることが、東アジアの安定性に貢献するというタフトの考えにセオドア・ルーズベルト大統領も同意した。
これが1905年の「桂・タフト協定」。
この年に結ばれたポーツマス条約で、ロシアも日本の優越権を認めたことによって、当時の欧米列強すべてが大韓帝国に対する日本の支配権を承認したことになる。
そして韓国は保護国となり、日本に併合されたのはご存知の通り。
まあ韓国のみなさんにとっては屈辱的で、納得いかない点がエベレストなみにあるのだろうが、強いものが奪うという帝国主義のルールを定めたのは欧米列強だ。
日本も生き残るためにかなり苦しんだ。
日露戦争の直前には、第26代朝鮮国王の高宗がロシア公使館に逃亡する「露館播遷」(ろかんはせん:1896年 – 1897年)が起きて日本を超驚かせた。
国王が「亡命」したのを見て、欧米列強も「だめだこりゃ」と思ったのでは。
天皇がロシア大使館に逃げ込んだら、日本国民はもう見放すかもしれない。
日露戦争は朝鮮半島がそんな残念な状態のなかでぼっ発した。
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