77年前の出来事で日本人が忘れてはいけないことに、広島・長崎への原爆投下のほかにもこれがある。
私たちは日本の都市を焼き払うという恐ろしい仕事をやっていた。
それはつまり、女や年寄りや子どもたちを焼き殺すってことだ。
私の中の野蛮な声がしつこくささやきかける。「日本人なんか・・・皆殺しにしてしまえ!」
1945年(昭和20年)3月10日、東京上空に無数の米軍の爆撃機が飛来し、一切の容赦や慈悲もなしで次々と焼夷弾を落としていき、10万人以上の死者と15万人以上の負傷者、そして約85万戸の家屋を焼く東京大空襲が行われた。
一度の空襲で生まれた犠牲者数としては、これが人類史上最大だ。
一説には10万人を超える死者を出した、江戸時代の「明暦の大火」が起きたのもこの時期で、乾燥した空気と強風があると、日本の木造住宅は本当にすぐに燃えてしまう。
焼け野原と死体だらけになった惨(むご)たらしい帝都を見て、当時の新聞報道は「東京大焼殺」と表現した。
「野蛮な声がささやきかけた」という上の声は、このときB‐29爆撃機に乗って「大焼殺」をしていたアメリカ兵のもので、「NHK 映像の世紀 第5集」で紹介されている。
3月10日の悲劇の日はいま「東京平和の日」になっているから、きょう都知事が何か平和へのメッセージを出すはず。
くわしいことはここで確認のこと。
爆撃による火災の煙は高度1万5000メートルの成層圏にまで達し、秒速100メートル以上という竜巻並みの暴風が吹き荒れ、火山の大噴火を彷彿とさせた。
南にある米軍基地から日本本土へ爆撃を行う場合、まず米軍機は富士山を目指して飛んできて、そのあとターゲットが関東にあればなら右、名古屋など西なら左へ曲がって「恐ろしい仕事」をしていた。
東京を空襲しているB-29爆撃機とそのあと(右側の川は隅田川で、手前の丸い屋根の建物は両国国技館)
東京大空襲の5か月に降伏する日本はこのときすでに敗戦濃厚だったのに、ここまで多くの民間人を殺害する攻撃を行なう必要が本当にあったのか?
これについてアメリカ側は、「早く戦争を終わらせないと、もっと多くの人が死ぬことになった」と原爆投下と同じ説明をしている。
当時、東京大空襲を指揮したカーチス・ルメイは米軍上層部から、
「やってみろ。B-29で結果を出せ。結果が出なかったら、君はクビだ」
「結果が出なかったら、最終的に大規模な日本上陸侵攻になり、さらに50万人のアメリカ人の命が犠牲になるかも知れんのだ」
と激しい口調で迫られていたから、「戦争終結を早めるため」という意識が強くあったことは間違いない。
そしてこれが最優先されると、作戦の必要性や民間人の犠牲といったことは後回しにされるから、東京・大阪・名古屋などの大都市を焦土に変えたあと、富山市や郡山市などの地方都市も焼き払ったのだろう。
日本国民から「鬼畜ルメイ」「皆殺しのルメイ」と憎悪されることよりも、カーチス・ルメイは「50万人のアメリカ人の命が犠牲」になることのほうを恐れたはず。
それでも戦後、航空自衛隊の育成に協力したということで、1964年にルメイは日本政府から勲一等旭日大綬章を授与されたという謎。
普通この勲一等は天皇が受賞者に手渡しで行なうのだけど、昭和天皇はルメイに対してはそれをしなかった。
勲章の授与は政府が決めたことだから、天皇は立場として拒否できなかったのだけど、無言で日本国民の思いをルメイに伝えたかったのだろう。
太平洋戦争の現実①敵は“飢え”。日本兵がフィリピンでしたこと
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