物部 vs 蘇我の「丁未の乱」 日本に仏教が定着したワケ

 

4月5日は四の五の言わず、「デビューの日」だ。
1958年のこの日、巨人の長嶋茂雄選手が初出場したことにちなんで、こんな記念日が爆誕したと。

なるほど。
では1500年ほど前、敏達(びだつ)天皇が治める飛鳥時代へタイムスリップしてみよう。
585年の4月5日は、仏教が大キライな豪族の物部 守屋(もののべ の もりや)が、「疫病が流行ったのは、仏教を崇拝したことが原因ですって!」と天皇へ奏上した(申し上げた)日。
というのはこの少し前、仏教推しの大臣・蘇我馬子が敏達天皇に仏教を信仰する許可を求めて、天皇からOKをもらう。
*言ってみればこの日が仏教の「日本デビューの日」。
それで蘇我馬子が仏教を祭り始めると、なぜか疫病が流行り出す。

日本古来の神々を信仰していて、仏教(仏法)とかいう外来宗教を嫌っていた守屋は、これは偶然ではなくて「蕃神(ばんしん:異国の神)を崇拝したからだ。これは必然、神罰だ!」と考えて、4月5日に天皇へ仏教崇拝の中止を奏上する。
すると敏達天皇は守屋の進言を受け入れて、仏教禁止の命令を出す。
天皇の意向を得て、「ヒャッハー!」となる豪族・物部 守屋(もののべ の もりや)がそこにいた。

守屋は自ら寺に赴き、胡床に座り、仏塔を破壊し、仏殿を焼き、仏像を海に投げ込ませ、馬子や司馬達等ら仏法信者を面罵した

物部 守屋

 

さらに守屋は、尼さんだった司馬達等(しば だっと)の娘を捕らえて、彼女を全裸にして街中へ引きずり出し、民衆の目前でムチ打つという鬼畜っぷりを披露する。

とにかくこれで、仏教という異国の神を信じる蛮行を禁止したから、日本の神々もお喜びになって疫病もおさまるはずだ。と守屋は安心したと思われるが、そんなワケはなく、疫病の流行は続いて敏達天皇も守屋も病気になってしまった。
これを知った人々は「仏像を焼いた罪だ…」とウワサする。
そして天皇はそのまま病で亡くなって、用明天皇が即位して新しい時代が始まった。が、仏教を支持する蘇我氏と、日本の神々を信仰する物部氏との対立は変わらず。

 

物部 守屋

 

ヨーロッパと違って、日本の歴史では宗教をめぐる争いが本当に少ない。
そんなレアな戦いの一つが、587年に起きた「蘇我馬子 vs 物部守屋」の丁未(ていび)の乱
この勝負、総大将の守屋が討たれて物部氏が敗北し、このあと物部氏は衰退していって、逆に蘇我氏繁栄と栄光の時代を迎える。
同時に仏教反対派の勢いがなくなったことで、日本に仏教が本格的に根付くこととなった。
でも、蘇我一族は調子に乗り過ぎた。
この後、645年の大化の改新(乙巳の変)で、中大兄皇子・中臣鎌足によって蘇我入鹿が暗殺され一族は没落していく。
でも、仏教は天皇に保護されて、日本に定着し独自の発展をとげていくのだった。

 

丁未の乱では蘇我馬子に味方して、一緒に戦った皇族の武人に「聖徳太子(厩戸皇子)」がいる。
太子は四天王の像に戦勝を祈願して、「もしこの戦いに勝たせてくれたら、必ずや仏塔をつくります。いやガチで」と誓う。
それで丁未の乱に勝利した聖徳太子が、約束として建てたお寺が大阪にある四天王寺だ。

 

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。