【鎖国の出島】オランダ人の日々 屈辱と退屈と輝かしい名誉

 

群馬では40度を超えるとか、耳から脳みそが蒸発しそうな猛暑のきょう6月25日、江戸時代の1641年をみてみると、この日は幕府がオランダ人を長崎の出島へ移住させた日だ。
それまで住んでいた平戸では、オランダ人は好きなところへ移動したり、日本人と交流したり結婚することもできてけっこう自由な生活ができていた。
それから狭い出島への移動を命じられて、反発するオランダ人もいたけど、オランダの商館長はこれを受け入れる。
ちなみに「南蛮人」とはスペイン人やポルトガル人のことで、オランダ人は紅毛人と呼ばれていて、そのうちそんな区別もなくなって西洋人をまとめて紅毛人と言うようになった。

約1万5千平方メート ル、およそ東京ドーム1.5個分の出島に住むことを強要され、そこから出るときには許可が必要だったとか、幕府の厳しい管理下に置かれたオランダ人は、鳥かごの鳥みたいな不自由な生活を余儀なくされる。

幕府は日本人と外国人との接触に対し、制限を次第に強化した。オランダ人もまた厳しい規則に縛られ生活していた。

日蘭交流の歴史

この出島で日本はヨーロッパ世界とつながっていた。

 

出島での生活では身体的な苦痛はないし、肉やワインを楽しむこともできた。
でも、まともな外出といえば年に一度、オランダ商館長(カピタン)が将軍にあいさつをするために江戸へ行く、カピタン江戸参府のぐらいで生活はかなり退屈で、まるで囚人のようだと嘆くオランダ人もいたらしい。
出島での日本人はいわば“看守”。
だからオランダ人は彼らを刺激しないよう行動し、禁教のキリスト教については特に気を付けていた。
地球儀にカトリックの聖人の名前が書いてあるのを見つけたオランダ人が、日本人にバレたら危険だと思い、それを削るかオランダへ持ち帰ることを提案したもある。
行動の自由はないし神経も使うし、けっこう疲れそうな生活だ。

 

でも、そんな屈辱的で退屈だった出島がオランダ人の最後の救いになり、最高の名誉が輝く場所になる日がやってきた。
1789年に始まったフランス革命の動乱から、ナポレオンとかいう大英雄が生まれると、オランダは彼に制圧されて、1810年にはフランス帝国の直轄領となりオランダ王国は消滅した。
オランダという国が地上から消えて、後ろ盾をうしなった海外のオランダ領もイギリスやフランスに奪われる。

でも極東にあった日本は、そんなヨーロッパの嵐とほぼ関係ない。
そんなわけでこのとき世界では、長崎の出島だけでオランダの名誉が輝いていた。
在日オランダ大使館のホームページに誇らしくこう書いてある。

なによりもドゥーフは出島にオランダの旗を掲げ続けた。出島の三色旗はその頃、地球上ではためく唯一のオランダ国旗だった。

日蘭交流の歴史

オランダ国旗

 

1641年6月25日に、出島へ移住させられたオランダ人は「暗黒の未来しか見えねー」といった不満を持っていたはず。
その後の、自由の代わりに規則だらけの生活も単調で退屈だったはずだ。
でも、出島というアンタッチャブルな空間があったおかげで、ヨーロッパでナポレオンが無双して国や政府を失っても、オランダは存在し続けることができた。
オランダ人が国旗と自由を掲げることができたのはここだけだ。

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。