江戸時代の日本を一度解体して、新しい国につくり変えたのが明治維新。
この大改革で一番大変だったのは全国の藩を一斉に廃止して、すべて県に置き換える廃藩置県だろう。
特定の領主が代々にわたってその地域を支配する統治システムは、平安時代か鎌倉時代から続いていたから、これを一掃したのはまさに画期的。
廃藩置県の詔書が1871年に出されてから、日本は政治の権利を中央政府に集中させて、欧米列強をモデルに近代国家になっていく。
その変化のスピードは控えめに言って異常。
だからそれを見たアメリカ人は、「少なくても欧州の間ではたいへんな驚きでした」と日記に書く。
当時の外国人の常識では廃藩置県のような大変革が、こんなにスムーズに進むというのはチョット考えられなかったらしい。
皇居で廃藩置県が伝えられたときの様子
江戸時代の日本に約300の藩があったのなら、イギリス支配下のインドには約600の「藩王国」があった。
中央政府であるムガル帝国が力を失っていくと、室町幕府が権威を失っていった日本のように、各地の有力者が立ち上がってほぼ独立した国を形成していき、インド全体が分裂状態になる。
でもイギリスがムガル帝国を滅ぼして、各地の王(マハラジャ)を忠誠を誓うと、その国はイギリスに臣従する藩王国として存在を許された。
インド全土がイギリスの植民地になったといっても、各地のマハラジャは基本的に領民から税金をとってゴージャスな生活ができていたし、その地方では「王」として君臨していたから、実際の生活は以前とあまり変わらない。
もちろん、イギリスに不満を持っていたマハラジャもいた。
でもそんな状態も、1947年にネルーがイギリスからの独立を宣言すると終了する。
すると明治維新の日本と同じように、インドも政権を中央に集中させる必要がでてきた。
つまり、各地の藩王国を廃止して州にする、「インド版・廃藩置県」を行なわないといけなくなったワケだ。
歴史にくわしいインド人に聞いた話だと、このときは外国人が驚くようなスピード感はなかったらしい。
藩王国がなくなれば各地の藩王は地位や特権を失うことになるし、住民から税金を徴収して、楽においしい生活をすることもできなくなってしまう。
それに、インドには日本の約9倍という広大な面積があるから、自分たちで独立してやっていけると考えて、政府に領地を明け渡すことを嫌がる藩王もいた。
明治の日本の話をすると、廃藩置県によって藩が無くなれば、藩主や武士は用済みの「いらない子」になってしまうから、当然、反発は予想されていた。
それで武装解除に応じない旧藩主がいたら、明治政府は薩摩・長州・土佐出身の兵で構成された御親兵を使って、武力で鎮圧するつもりでいた。
でも幸い、日本では廃藩置県に抵抗する藩はなく、御親兵の出番もなかった。
でもインドは違う。
王としての地位がなくなり、それまでの特権も奪われることになるから、「インド版・廃藩置県」に反対するマハラジャは各地にいたという。
知人のインド人が言うには、その代表例はインド最大の面積をもっていたニザーム藩王国だ。
ちなみに1857年にイギリスに対するインド人による武装蜂起「インド大反乱」が起こると、ニザーム藩王国はイギリスの味方になってインド人の反乱を鎮圧した。
全インド人がイギリスの植民地支配を嫌っていたわけではなくて、これでオイシイ思いをしていた人はイギリスを支持していた。
イギリスの時代が終わって、インドが独立国としてスタートする1947年の独立宣言は、日本でいえば江戸から明治へ変わる王政復古の大号令のようなもの。
このときインド政府に強制的に併合された藩王国もあれば、自主的にインドへの帰属を選んだ藩王国もあった。
でもニザーム藩王国はそれとは違い、単独での独立を宣言する。
でも、国内に独立国のある状態をインド政府がいつまでも認めるワケはない。
政府はインド軍(日本でいえば御親兵)を送り、軍事侵攻(ポロ作戦)を開始すると、圧倒的なインド軍にニザームの軍は駆逐され、1948年に藩王が降伏してニザーム藩王国はインドに強制併合された。
これが現在のハイダラーバード州だ。
ニザームの最後の藩王、ウスマーン・アリー・ハーンは「世界最大の資産家」と言われるほどのリッチマンだった。
独立時のインドの国家歳入が10億ドルだったのに対し、彼は20億ドルの資産を擁していた、世界最大級のダイヤモンドを文鎮がわりに使っていたといわれている。
インドに編入されるのを嫌がって、独立国でいようとした理由もわかる。
スーパーリッチマンだったウスマーン・アリー・ハーン
日本が廃藩置県という大改革をスムーズに行うことができたのは、すべての大名が忠誠を誓う天皇がいたからだ。
そのことは、そんなシンボル的な存在がいなかったインドを見ればよく分かる。
世界的に見れば、インドのような状態がフツウだったと思う。
以下、余談
日本でも、廃藩置県に反抗した殿さまがいなかったわけではない。
旧薩摩藩主の島津久光がブチギレて、「怒りの一人花火大会」を行ったのはけっこう有名。
これぐらいで、ポロ作戦みたいな軍事侵がなかった日本はラッキーだった。
これに激怒し、抗議の意を込めて自邸の庭で一晩中花火を打ち上げさせる。旧大名層の中で廃藩置県に対してあからさまに反感を示した唯一の例になる。
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