【天皇直訴】明治の田中正造・江戸時代の「御所千度参り」

 

日本で初めての公害事件と言われるのが、明治時代に起きた「足尾鉱毒事件」。
19世紀後半、栃木県にある足尾銅山は年間に数千トンの銅を生産し、東アジア最大規模の銅の産地になった。
しかしこのとき、十分な技術力がなかったため、銅の精製時に「鉱毒」という悪魔が発生していたことを人びとはまだ知らない。
この鉱毒が渡良瀬川に入り込み、その「毒水」のせいで下流地域の田んぼでは稲が枯れてしまい、農民は大打撃を受けた。
怒った農民は蜂起して、その運動の中に政治家の田中正造(たなか しょうぞう:1841年 – 1913年)がいた。

多くの農民が東京へ行って被害を訴え、田中は国会で事件について質問するも、総理大臣の山縣有朋は「質問の意味がわからない」と答弁を拒否して事態はなかなか前に進まない。
そしてとうとう田中正造は、明治天皇に直接お願いするという究極の方法を思いつく。
1901年12月10日、帝国議会開院式から御所へ戻る中の明治天皇の馬車に向かって飛び出し、天皇に直訴しようとするも、田中は警官に取り押さえられて失敗に終わる。
でも、東京は大騒ぎになり、新聞の報道で田中の直訴状の内容は多くの人が知ることとなった。
「天皇直訴」は考えられないような不敬行為で、死を覚悟した田中は迷惑をかけないよう、事前に妻へ離縁状を送っている。
でも結果的に、「狂人が馬車の前によろめいただけ」と政府はこの“特攻行為”を不問にした。

 

田中正造

 

江戸時代の1787年のきょう7月21日には、庶民が京都御所に「御所千度参り」という”直訴”を行った。
この日、京都御所に人びとが集まり、そのまわりをグルグルと歩いて回る「千度参り」をする。
京都やその周辺だけでなく、大坂からも御所を目指して人びとがやってきて、3日後には3万人、10日を過ぎるころには7万人に達したという。
もちろん京都は人でいっぱいだ。
すると後桜町上皇は3万個のリンゴを配り、有栖川宮や一条家はお茶を、九条家や鷹司家は握り飯を提供した。

この「御所千度参り」の引き金になったのは、江戸の四大飢饉のひとつで、近世では最大の飢饉といわれる「天明の大飢饉」(1782年~1788年)と考えられている。
食べ物が無くなって困り果てた庶民が、天皇に助けを求めてやってきたのだろうと。
事態を重くみた光格天皇は江戸幕府に対し民衆の救済を要求すると、幕府はそれに応え、1500俵の米を京都の人たちへ放出することにした。

民衆の必死の思いが天皇を動かしたのだった!
…という美談でこの話は終わらない。
というのは、光格天皇がしたのは“法律違反”だったから。
これは、天皇の政治行為を禁じる「禁中並公家諸法度」に真っ向から反する行為で、天皇の叔父で関白だった鷹司輔平(たかつかさ すけひら)も厳罰を覚悟して、幕府に同じ内容の申し入れをした。
でも、徳川幕府は「狂人がよろめいただけ」ではなくて、庶民の困窮ぶりを考えれば、天皇や関白が行ったことは当然のこととして、法律(法度)違反は不問とした。

 

光格天皇

 

4~5世紀の仁徳天皇(にんとくてんのう)には「民のかまど」という話がある。
あるとき高台に登って見渡すと、民家のかまどから煙が立ち上っていないことに気づいた仁徳天皇は、庶民は米を炊くこともできないほど貧しいのだと気づき、3年間の税を免除した。
法律違反を覚悟で幕府に民衆救済を要請した光格天皇は、当然この話を知っていただろう。
「千度参り」を行なった数万人の中にはこの話を知っていて、天皇の慈悲にすがった人もいた気がする。
「天皇直訴」という命がけの行為に出た田中正造もそうだったりして。

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。