九州~関東を平定した日本武尊 焼津と東(アヅマ)の由来

 

きょう8月18日はウィキペディアが言うには、110年に景行天皇が息子の日本武尊(やまとたけるのみこと)に「東の蛮族を討ってこい!」と命じた日だ(東夷討伐)。
日本書紀では「日本武尊」、古事記では「倭建命」と表記されているが、どっちも読み方は「やまとたけるのみこと」でいまではフツウは「日本武尊」とあらわす。
景行(けいこう)天皇は伝説上の人物で、実在したとすれば4世紀ごろの人。

日本武尊の行動については日本書紀と古事記では内容がちがうから、これから紹介する話はその一つで、くわしいことは「ヤマトタケル」を参照してくれ。

日本神話では伝説的な武人の日本武尊は景行天皇から、九州で反乱を起こした熊襲(くまそ)兄弟の討伐を命じられると、見事にそれをやり遂げてヤマト(奈良)へ戻ってくる。
しかし戦士に休息はない。
すぐに、東にいる蛮族を討ってこいと天皇に命じられる。
その際、天照大神を伊勢(神宮)に祀ったとされる倭姫命(やまとひめのみこと)から、「ピンチになったらこれを開けなさい」と小さな袋と、神剣の天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を渡された。
天叢雲剣はスサノオが退治したヤマタノオロチ(八岐大蛇)の体内から見つかった剣で、草薙ぎの剣(くさなぎのつるぎ)ともいう。
この2つのアイテムをゲットして東国征討に出かけた日本武尊は、完全にRPGやアニメのメインキャラだ。

 

日本武尊は美少女に変装して宴会に入り込み、イイ感じに酔っぱらった熊襲のボス(兄弟)を討ち取る。

 

ピンチは相模の国(神奈川)でおとずれた。
敵のワナにはまった日本武尊は、それを知らずに野原に入っていくと、周囲から火を点けられて焼き殺されそうになる。
火攻めをくらった日本武尊は「いまこそアレだ!」と袋を開けると、中には火打石が入っていた。
「なぎ払え!」と天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)で周囲の草を払うと、日本武尊はその石で迎え火を点けて炎を退ける。
そして「今度はこっちのターンだっ」と敵をすべて斬り殺すと、死体を火で焼いてしまう。
静岡にある焼津の地名はこの話に由来すると市のホームページにある。

日本武尊(やまとたけるのみこと)が東夷征伐の途中、天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)で草をなぎ払い火をかけて賊を滅ぼした地名に由来しています。

「焼津」の地名の由来 

草をなぎ払い、火を点けて敵を返り討ちにする日本武尊
天叢雲剣(草なぎの剣)は三種の神器の一つ(ほかに鏡とまが玉)で、天皇の持つ武力の象徴だ。

 

相模では海を渡る直前、「こんな小さい海、飛び上ってでも渡ることができるわ」と日本武尊が言って海神を怒らせてしまい、海上で暴風が起こって船が進まなくなる。
このとき妻の弟橘媛(オトタチバナヒメ)が海に飛び込んで、海神に自分の命をささげると波はしずまって船は目的地へたどり着くことができた。
そして蛮族と戦い、服従させて東国を平定した後、神奈川と静岡の境にある足柄坂の山頂から東国を見渡すと、日本武尊は亡き妻の弟橘媛を思い出して「吾妻はや」(わが妻よ)と三度口にした。
それ以来、東国はアヅマ(東・吾妻)と呼ばれるようになる。

日本武尊が海神をディスって、その犠牲になった弟橘媛(オトタチバナヒメ)

 

日本神話で最強レベルの武人にも最期のトキはくる。
だいたい九州から関東を平定した日本武尊は東国征討からヤマトへ戻る途中、岐阜と滋賀の境にある伊吹山のあたりで病気になってこの世を去った。
彼の神剣・草なぎの剣は尾張国で祀られることになり、これが熱田神宮(名古屋)の御神体となって現在にいたる。

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。