日本とヨーロッパ史の転換点:アナーニ事件と治承三年の政変

 

1303年のきょう9月7日、フランス国王フィリップ4世の指示で数千の兵がイタリアの都市アナーニにあったローマ教皇の宮殿へ突入し、いま日本中の高校生が世界史でならう「アナーニ事件」がぼっ発。
フランス軍に捕まった教皇ボニファティウス8世(Boniface)はなんとか殺害は免れたものの、捕虜となってからは3日間、食べ物や飲み物を与えられず飢餓状態におちいったという。

Boniface was nearly killed (Nogaret prevented Sciarra Colonna from murdering the pope). Still, Boniface was held prisoner and starved of food and drink for three days.

Outrage of Anagni

拘束されるボニファティウス8世と、十字架をガン無視するフランス兵の図

 

同じアナーニの近くでは100年ほどまえに、あのインノケンティウス3世が生まれた。
イノケンは自分の気に入らない皇帝は破門し、お気に入りを皇帝にしてローマ帝国を動かすほど、当時のヨーロッパ世界ですさまじい権力を持っていた。
歴史上、もっとも強い教皇権を持ち、西欧諸国の政治にどえらい影響を与えたこの教皇は1215年のラテラン公会議で、「教皇は太陽。皇帝は月」と言い放つ。
太陽に比べて、月は量も質も力も劣っている。太陽と月のように、ヨーロッパの君主は教皇の権威を受けて輝いているにすぎない。
教皇権を最高の権威とし、王や皇帝に対する優越を示す。

そんなインノケンティウス3世はまさか100年後、ローマ教皇が殺されかけて食べ物や飲み物すら与えられず、放置されることになるとは夢にも思わなかったはず。
歴史的な屈辱を味わった教皇ボニファティウス8世は、このあと怒りのあまり急死(憤死)したという。

アナーニ事件で「フランス国王<ローマ教皇」の力関係は明らかになった。
フィリップ4世この後、新教皇クレメンス5世をフランスのアヴィニョンへ移住させ、そこで自分の管理下に置く。
このとき教皇が「やめてクレメンス!」と叫んだとヴァチカンの記録にある。しらんけど。
アヴィニョン捕囚で教皇権に対する王権の優位が確立された。
これ以降、ローマ教皇の権力は衰退していき、相対的に王の力は増大し絶対王政の時代がやってくる。

 

ボニファティウス8世の棺(ヴァチカン)

 

ローマ教皇と国王の力が逆転するアナーニ事件を日本史で探すとしたら、それは「治承(じしょう)三年の政変」か。
「教皇は太陽。皇帝は月」とイノケンが豪語したちょっとまえ、後白河法王と対立していた平清盛が1179年に数千騎の大軍を率いて京都を制圧する。
「え、マジで?」とこの事態をまったく想像していなかった後白河法王は、「自今以後、万機に御口入有るべからざる(今後二度と政務に介入しない)」と約束するも許されず、鳥羽殿に連行されて幽閉の身となった。
捕虜も同然の状態になって、後白河による院政はこれにて完全終了。
逆に清盛のパワーは最高潮をむかえて、「日本最初の武家政権」ともいわれる平家政権を確立する。

法王を捕まえて閉じ込めたこととか、ヨーロッパ世界のラスボスだったローマ教皇が弱体化し、王権が増大していく転換点となった「アナーニ事件」と「治承三年の政変」はよく似ている。

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。