韓国の首都ソウルには、朝鮮時代の王宮がいくつかある。
そのなかのひとつ昌徳宮(チャンドックン、しょうとくきゅう)に行った時、これは韓国旅行のとてもいいサービスで、現地の日本語ガイドが無料で案内をしてくれた。
そのツアーの最中、ガイドが「みなさん、李方子(り まさこ、イ・バンジャ)という人を知っていますか?」と投げかけると、30人ほどいた日本人のなかで手が上がったのは3、4人ほど。
つまり、ほとんどの日本人がこの日本人を知らなかった。
それで、「方子さんは立派な人なので、ぜひ覚えてください」と言って韓国人ガイドが説明を始める。
1910年に日本が韓国を併合した後、大韓帝国の皇太子だった李 垠(イ・ウン)は、王世子として日本の王族の一人になった。
伊藤博文と子どものころの李垠
この李垠(イ・ウン)と結婚したのが、昭和天皇のお妃候補の一人でもあった梨本宮家の方子(まさこ)だ。
第二次世界大戦後、方子は夫の姓をとって「李方子」と名乗り、2人はソウルの昌徳宮にある建物で暮らしていた。
その後、夫が亡くなっても方子は日本へは戻らず、韓国の障害児教育のために残りの人生を捧げる。
焼き物や書、絵画を販売したり、朝鮮王朝の宮中衣装のショーを開催して資金を集めると、方子はそれで韓国初の障害者福祉施設「明暉園」と知的障害養護学校「慈恵学校」を設立した。
障害者のために懸命に取り組む方子には多くの韓国人も共感し、その功績が認められ、1981年には韓国政府から「牡丹勲章」が授与された。
いまでも方子は、韓国の障害者福祉事業の基礎を築いたと高い評価を受けている。
聯合ニュース(2007.10.12)
福祉面では不毛だった韓国で初めて障害者のリハビリと社会適応訓練、職業教育などを行い、専門的な障害者福祉事業の基礎を築いた。
李方子さん設立の障害者福祉施設が40周年迎える
李方子(1901年~1989年)
昌徳宮の日本語ガイドの女性(いまなら60~70代)は李方子をとても尊敬していた。
統治時代に生きた日本人(しかも元皇族)で、韓国で好意的にみられる人は本当に少ないし、日本語ガイドとして、方子は日本と韓国のかけ橋として理想的な人物。
でも、ツアーの最中に聞いても、方子を知る日本人はいつも少なくてガッカリすると言う。
ただ、いま20代の韓国の若者に聞いたら、彼は李方子を知らなかった。
「誰ですかそれ?」と言ってグーグルで調べて、「こんな日本人がいたんですね! 韓国では聞いたことなかったです。若い世代は知らないと思いますよ」と言うからガッカリだ。
ハッキリしたことは分からないが、韓国の障害者福祉事業の基礎を築いたのが日本人だったという事実は、いまの韓国社会ではあまり受けがよくないから、あまり話題にならないのでは? と彼は推測する。
どうやら日本人が韓国人に、李方子という偉人を伝えないといけないらしい。
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