豊臣秀吉と寝ろ。
ではなくて、「猿」や「ハゲネズミ」といわれた豊臣秀吉と、「暴君」の代名詞になった皇帝ネロには共通点がある。
いまから約2000年前に生まれたネロは皇帝としてローマ帝国を支配して、戦国時代の末期に関白となった秀吉は日本の統治者となった。
そんなネロと秀吉は、大量のキリスト教徒を処刑した初めての最高実力者でもある。
その闇歴史をこれから紹介しよう。
ネロ・クラウディウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクス(ながっ)
キリスト教では平等が重視されるから、奴隷とそうでない者が同じ信者として、テーブルに座ることを認めていた。
でも、そんなことを当たり前のようにされると、ローマ帝国の社会を支えている身分制度が崩れてしまうかもしれない。そんな危機感をもつ人がいて、キリスト教を危険な宗教とする見方もあった。
そんななか西暦64年、首都ローマで大火災が発生。
ローマの半分以上を焼き尽くしたというこの火事は空前絶後のレベルで、1657年におきた明暦の大火、1666年のロンドンの大火とならんで、世界の三大火災のひとつに数えられる。
この火災の後、ネロは「キリスト教徒のしわざだ!」と言い出し、大火災の責任をキリスト教徒に押し付けて、彼らを捕まえて“放火犯”として処刑した。
新しい都市を建設したかったネロがこの火災をおこしたというウワサが流れたから、それを打ち消すために、ネロはキリスト教徒を集めて公開処刑したという説もある。
本当の理由はなんであれ、これがキリスト世界におけるネロの印象を決定づけた。
この処刑がローマ帝国による最初のキリスト教徒弾圧とされ、キリスト教世界におけるネロのイメージに大きな影響を与えた。ネロはキリスト教の一般信徒を多数処刑した最初の皇帝であり
ネロの命令で生きたまま焼かれるキリスト教徒たち
キリスト世界で不吉とされる「666」(獣の数字)は皇帝ネロを指すという。
ローマ大火から1500年ほど後、日本へキリスト教が伝わった。
それは戦国時代の末期、織田信長や豊臣秀吉がいたころで、西洋人がもたらした鉄砲という新兵器は長く続いた日本の混乱を終わらせる大きな要因となる。
はじめのころ秀吉はキリスト教を“邪教”とは思わず、イエズス会に許可証をあたえて布教を認めていた。
でも、ポルトガル商人が日本人を奴隷として、売り飛ばしていることに宣教師が手を貸していると知って激怒。
初めてヨーロッパの地を踏んだ日本人は、こうして運ばれた奴隷だったという。
ほかにもキリスト教徒は仏教や神道を否定し、寺や神社を破壊するヴァンダリズム(蛮行)をおこなったこともあって、キレた秀吉は1587年に「バテレン追放令」を出す。
*「バテレン」は神父をあらわすポルトガル語の「パードレ(padre)に由来する言葉で、キリスト教の司祭を意味する。
でも、この「バテレン追放令」はわりとぬるい。
日本にいる宣教師を一人残らず追い出すほど、徹底的なのではなかったから、その後も日本で布教活動をおこなう宣教師がいたし、キリスト教の信仰を禁止しなかったから信仰を続ける人もたくさんいた。
でも、1596年にサン=フェリペ号事件がおきて一変する。
スペイン船のサン=フェリペ号が土佐(高知県)に漂着すると、対応にあたっていた日本人に船員がこんな“征服計画”を話す。
スペイン国王は宣教師を海外へ派遣して、まず現地の人をキリスト教の信者にかえる。
そしてその後、その信者とスペイン軍の兵力でもって、内側と外側から攻めてその国をスペインのものにしてしまう。
これはもう完全アウトだ。
この報告を聞いた秀吉はキリスト教を日本の秩序を乱す危険な宗教と考えて、また禁教令を出す。
今度はぬるくない。
京都や大坂にいた宣教師や日本人の信者(信徒)を捕まえて長崎へ送り、1597年に26人を一斉に処刑した。
日本の最高実力者がキリスト教徒の処刑を命じたのはこれが初めてだ。
この出来事は日本よりも、欧米でのほうが有名かもしれない。
英国国教会は1959年に豊臣秀吉が26人の殉教者を処刑した日の翌日である2月6日を記念日とした。アメリカ福音ルター派教会でも、2月5日を記念日としている。
そんなことでキリスト世界では、ローマ皇帝ネロと豊臣秀吉に良い印象はない。
秀吉も「666」で表されもおかしくない。
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