きょう6月7日は1868年(明治元年)に、政府が長崎のキリシタンを流罪にすると発表した日。
ということでこれから、日本でキリスト教が解禁されるきっかけとなった「浦上四番崩れ」について知っていこう。
16世紀後半にヨーロッパから宣教師がやってきて、カステラ・黒人奴隷・キリスト教などなど日本にはなかったモノ・人・思想を伝えた。
織田信長はキリスト教の布教を認めていたが、その教えが浸透していくといろんな問題が起こり、信長の死後、天下人となった豊臣秀吉や側近も無視することができなくなる。
キリシタン大名や信者が寺や神社を破壊したり仏教僧を迫害する、信仰で結ばれた信者が一向一揆のような反乱を起こすかもしれない、ヨーロッパ人は日本人を奴隷として海外へ運んでいた、といったことが理由で秀吉はキリスト教を禁止する。
日本初のキリシタン大名で、長崎港を開港したことでも有名な大村 純忠(おおむら すみただ)のしたことをみれば、こういう思想が当時の日本で問題視されるのも必然。
領民にもキリスト教の信仰を強いて僧侶や神官を殺害、改宗しない領民が殺害されたり土地を追われるなどの事件が相次ぎ、家臣や領民の反発を招くことになる。
「中国、南蛮、朝鮮半島に日本人を売ることはけしからんことである。そこで、日本では人の売買を禁止する」とバテレン追放令を出した秀吉。
キリスト教は江戸幕府の考え方とも合わない。
これを“野放し”にしておくことは危険と判断した幕府は、1614年にバテレン追放令をだし、キリスト教の信仰を日本全国で禁止する。(慶長の禁教令)
以来、江戸時代の日本でキリスト教は絶対的なタブーとなり、信仰は違法行為で処罰の対象になったから、それでも神を捨てられない信者は隠れキリシタンになるしかない。
日本初のキリシタン大名・大村 純忠が統治していた長崎にあった浦上村では、そんな隠れキリシタンがひそかに組織を作って信仰を守り続けていた。
でも、それが原因で江戸時代から明治時代初期の間に、浦上村の隠れキリシタンが政府から検挙・弾圧されることが4回あって、これを「浦上崩れ」という。
「崩(れ)」とは検挙事件のこと。
この浦上崩れの中で最も知られているのが、幕末の1867年に起きた「浦上四番崩れ」だ。
江戸幕府が行っていた禁教令は日本国民限定で、ヨーロッパ人は対象外。
それで日仏修好通商条約に基づいて、1864年にフランス人が長崎にカトリック教会の大浦天主堂を建てると、翌65年に浦上村の住民がそこを訪ねてきて、ベルナール・プティジャン神父にこう告げた。
「ワレラノムネ、アナタノムネトオナジ(私たちの信仰はあなたの信仰と同じです)」
「サンタ・マリアの御像はどこ?」
数百年もの間、幕府に見つからないように信仰を守り続けてきた信者と会って、プティジャン神父は驚き歓喜雀躍。
プティジャンがこの知らせを送ると、ヨーロッパでは大ニュースとなる。
でも禁教令があったため、プティジャンは日本人の信者にこっそりとミサや指導を行っていたけれど、1867年に浦上村で、仏式の葬儀を拒否した人がいたことから隠れキリシタンの存在が発覚し、約70人が検挙された。
これにドイツ・フランス・アメリカ・ポルトガルの公使や領事が幕府に抗議し、フランス公使のレオン・ロッシュは徳川慶喜と大坂城でこの事件についての話し合いをもつ。
でも江戸幕府の返事はNO。
その後、江戸幕府が崩壊して明治時代になっても、政府は幕府の禁教令を維持して、1868年のきょう6月7日、浦上のキリシタンの流罪が決定した。
信徒の中心人物114名を津和野、萩、福山へ移送することを決定した。以降、1870年(明治3年)まで続々と長崎の信徒たちは捕縛されて流罪に処された。
この処置をもって「浦上四番崩れ」は終了。ということにはならず、むしろハジマッタ。
明治政府の最も重要な仕事の一つに、幕末に欧米諸国と結ばされた不平等条約の改正があった。
そのために岩倉使節団が欧米を訪問すると、アメリカのグラント大統領、イギリスのヴィクトリア女王、デンマーク王クリスチャン9世らに、キリスト教を禁じる政策を激しく非難されてしまう。
悲願だった不平等条約改正で、その最大のネックが禁教令だったを思い知らされた明治政府は、1873年(明治6年)にキリシタン禁制を廃止し、「浦上四番崩れ」で検挙された信者を釈放する。
長崎に戻った彼らによって建てられたのが、現在の浦上天主堂の始まり。
この事件によって結果的に、1614年に「バテレン追放令」が出されてから、259年間も続いていた禁教令は廃止されて、キリスト教が日本で全面解禁されることになった。
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