パレスチナ問題:日本でイギリスは“悪者”だが、実際には…

 

アニメ『ガルパン』の中で、イギリス人キャラ(実際は神奈川出身らしい)の女子高生ダージリンがこんなことを言う。

「イギリス人は恋愛と戦争では手段を選ばない」

「All’s(All is) fair in love and war」という英語のことわざが元ネタになっている。
このダージリンはしたたかだ。
戦いの前には「騎士道精神でお互い頑張りましょう」とさわやかに言いながら、実際の戦いでは相手を追い詰めた状況で、まるで貴族がキツネを狩るような容赦のない言葉をはく。
きっとこのシーンは、日本にあるイギリス人に対する「二枚舌」のイメージが反映されている。

 

さて、先月7日、イスラム組織ハマスがイスラエルに奇襲攻撃を仕掛け、多くの民間人を殺害し、誘拐する事件がおき、イスラエルとハマスとの戦争がはじまった。
その後、展開が泥沼化して死傷者が増えていくと、日本のネットでは、イギリスを批判する書き込みが目立つようになった。
たとえば、スナク英首相がイスラエルを訪問し、ネタニヤフ首相と会談して「(イスラエルには)反撃する権利がある」と発言すると、日本では「パレスチナにも同じこと言ってそう…」と冷めた目で見る人が何人もいた。

100年ほど前、イギリスは自分の利益を最優先に考えて、アラブ人やユダヤ人と矛盾した(ように見える)約束をしたことが、現在のパレスチナ問題の大きな要因になっている。
だから、日本ではそれを「2枚舌外交」と皮肉する人が多い。

国連のグテレス事務総長が、「ハマスによる攻撃は何もないところから突然起きたわけではない」と発言し、イスラエルがパレスチナ人を占領下に置いていることを暗に批判した。
でも、日本のネット民は「おいイギリス、なんか言われてるぞ」と書き込む。
イスラエル側はグテレス氏の発言に「テロ行為を正当化している」と大反発し、事務総長の辞任を求めた。
パレスチナ問題の背景は超複雑だから、国連事務総長であっても、予想外の批判や怒りを引き起こすことがある。

 

パレスチナの大地

 

現在のパレスチナ問題に関して、日本人がよくイギリスを揶揄する「2枚舌外交」とは、第一次世界大戦時の最中、イギリスがユダヤ人とアラブ人と交わした約束を指す。
当時、オスマン(トルコ)帝国に宣戦布告していたイギリスは、何とかしてこの難敵を倒そうと、「All’s fair in love and war」の精神で使えるモノは何でも使った。

1915年に、イギリスはオスマン帝国の支配下にあったアラブ人に対し、武装蜂起を起こせば、戦後、パレスチナの地にアラブ人国家を建設することを支持すると約束した。
これが「フセイン・マクマホン協定」という。
一方、1917年にイギリスは今度はユダヤ人に対し、戦争の資金を提供すれば、パレスチナの地にユダヤ人国家を建設することを支持すると約束した。
これが「バルフォア宣言」だ。

くわしいことはこの記事を。

【できない約束】イギリス、パレスチナ問題の原因をつくる

アラブ人もユダヤ人もイギリスの言葉を信じて戦争に協力し、イギリスの勝利に貢献した。
しかし、「All that glitters is not gold」(光るものがすべて黄金とは限らない)という英語のことわざのように、素晴らしい提案に見えた「フセイン・マクマホン協定」と「バルフォア宣言」には”闇”があった。
これは、パレスチナという1つの土地に、アラブ人とユダヤ人の2つの国家を建設するということだから、現実的には無理があり、結果として両者の激しい対立を招き、これがそのまま現在のパレスチナ問題につながった。
そして日本では、「もとはと言えばイギリスが…」という批判の原点となる。

 

第一次世界大戦後、イギリス領となったパレスチナ(1920年ごろ)

 

アラブ人国家の建設を約束した「フセイン・マクマホン協定」を知らなかったユダヤ人たちは、「聞いてないよ~」というレベルではなく、言葉を失うほどのショックを受けたと思われる。
それでも、「だまされた感」を抱えながらも、パレスチナへ移住する動きを進めていく。
現地にいたアラブ人は「なんでユダヤ人が来るワケ?」と疑問に思ったかもしれない。

パレスチナを統治していたイギリスは、当初はアラブ人とユダヤ人の関係はそれほど悪くなかったから、この地にそれぞれの国家をつくることは可能だと考えていた。
植民地大臣をしていたチャーチルはこう語る。

「アラブ人は何も恐れなくてもよい。大英帝国がユダヤ人の入植をコントロールしていくからだ。ユダヤ教の聖書にもあるように、将来必ずやパレスチナはミルクと蜜が流れる永遠の地として発展するだろう」

今回のハマスとイスラエルの戦争によって、すでに1万人以上の死者が出ている。
そんな現状からしたら、こんな言葉は楽観的を超えてファンタジーで、結果としてはとてつもなく不幸フラグだった。
でも、この当時は、ユダヤ側とアラブ側には妥協する余地があり、共存の可能性はあったと思う。
たとえば、オスマン帝国に反旗を翻したイラク国王のファイサルはバルフォア宣言を受け入れている。
ファイサルのもとには、財務大臣を務めたサッスーン・エスケルなどユダヤ人の閣僚が何人もいた。
サッスーンが亡くなると、主要なアラビア語の新聞は「国家にとって取り返しのつかない損失である」とその死を惜しんだ。
現代の常識では考えられないような状況が、このころは常識としてあったのは事実。

 

オスマン帝国と戦い、初代イラク国王となったファイサル
彼を支えたのが、映画『アラビアのロレンス』で有名なイギリス陸軍将校のトマス・エドワード・ロレンス

 

ユダヤ人とアラブ人の共存が崩れた一因は、フサイニーのような両者の対立をあおる過激派の存在だ。
反ユダヤ主義の彼は1929年の「嘆きの壁事件」で、アラブ人がユダヤ人を虐殺するよう仕向ける。
フサイニーはアラブ人であろうと、自分に反対する人間には慈悲も容赦もなかった。

 パレスチナ・アラブ人(のちに「パレスチナ人」とされる)の大部分はユダヤ人との平和な生活を望んでいたにもかかわらず、暴力団によって反フサイニー派のアラブ人を殺害し、フサイニー家のライバルのアラブ人136人を虐殺した

アミーン・フサイニー

 

こんな事件によって、パレスチナでユダヤ人とアラブ人の対立は激化していき、もはや大英帝国ではコントロールできなくなっていく。
「ミルクと蜜が流れる永遠の地として発展するだろう」と約束されたパレスチナの地には、大量の血が流れるようになり、今も出血は止まらない。
最終的にはイギリスは、この問題の解決を「後はよろしく!」と国連に丸投げして出て行ったから、無責任さや「二枚舌外交」の批判は避けられない。
とはいえ、「恋愛と戦争では手段を選ばない」というイギリスも、ユダヤ人とアラブ人の平和的共存は可能だと考え、その実現に努力をしていたことは知っておいていい。

 

イギリス統治下のパレスチナ(1940年代)

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。