日本語を学んでいるイギリス人から、こんな話を聞いたことがある。
「私たちは日本では“イギリス人”って呼ばれているだね。イギリスって単語を見たとき、最初は何のことか分からなかったよ」
イギリス人を指す英語には「British」や「British person」がある。
「IGIRISU(JIN)」なんて言うのは日本人だけだから、外国人に通じないわけない。
日本とイギリスにはいろいろな違いがあるけれど、どっちも島国で、昔から天皇と国王の“君主”がいるという共通点がある。
でも、天皇と英国王では、歴史的な役割や位置づけが違う。
今回は17世紀に焦点をしぼって、その違いを書いていこう。
1641年のきょう11月22日、英国議会で、国王チャールズ1世の“悪政”の数々に抗議することが可決された。
同じころの日本で、幕府が天皇の横暴に耐えられなくなり、「あなたの政治は間違っている!」と抗議する事態は、天地がひっくり返ってもあり得ない。
チャールズ1世は王権神授説を採用し、こんな考え方を持っていた。
「王の権利は人民ではなく、神から与えられたものだから、王は神に対してだけ責任を負えばいい。また、王権を制約できるのは神だけで、地上のどんな人間にもそんなことはできない。国王のすることに、人民が反抗することはできない」
こんな超上から目線の思想から、チャールズ1世は議会を無視して独断で課税をおこなって国民を苦しめ、反対する人たちを投獄した。
国を私物化する王に、ついに議会がキレた。
1628年に議会は「権利の請願」を提出し、課税をする際には議会の承認が必要だと王に要求し、認めさせた。
でも、チャールズ1世は「自分を制約できるのは神だけ」と考えるような人だから、すぐにそれを無効化してしまう。
彼は議会を解散し、また課税を強行したり、キリスト教の一派ピューリタンを弾圧したりと、好き勝手なことをはじめた。
1641年11月22日、英国議会はこうした悪政に抗議し、王を諫(いさ)める文を可決する。
これを「議会の大諫奏(大抗議文)」という。
チャールズ1世がこれを拒否すると、英国内は国王軍と議会軍に分かれ、翌42年から内戦がぼっ発し、1649年にチャールズ1世は処刑された。(イングランド内戦)
チャールズ1世
この国王は日本との関わりが深い。
チャールズ1世が徳川家康と手紙でやり取りを交わしたことで、日本とイギリスの関係がスタートした。
1628年に英議会が「権利の請願」を提出した前年、日本では「紫衣事件」がおこった。
権利の請願によって英議会と国王が対立したように、紫衣事件の結果、幕府と天皇の関係もかなり悪化する。
江戸時代の日本では、天皇が最高の権威を持っていて、将軍は最高の実力を持ち、政治は幕府が担当していた。
幕府が「あなたは学問をしていればいいんです」といった内容の禁中並公家諸法度を示したことによって、天皇の自由は制限されてしまう。
*禁中=天皇
幕府が法をつくって、天皇に守らせたのだから、国王の悪政に議会が抗議した英国とは状況がまるで違う。
当時、天皇が徳の高い僧に、「紫衣」と呼ばれる紫色の僧衣を贈る慣習があった。
後水尾(ごみずのお)天皇が高僧に紫衣を授けたところ、幕府が「事前に我々に相談しなかっった。禁中並公家諸法度に違反している!」と怒り出す。
そして、勅許(ちょっきょ:天皇の許可)を取り消し、天皇が与えた紫衣も僧から取り上げた。
これによって、幕府の法(法度)は天皇の勅許より優先され、将軍が天皇より上に立つことが示され、朝廷と幕府の対立は深まっていく。
幕府の対応は、天皇にとってはかなりの屈辱。
この紫衣事件で後水尾天皇は激怒し、譲位を決意したと言われる。
後水尾天皇
国王の権利は神から与えられたーー。
英国ではそんな王権神授説によって、チャールズ1世はスペインとの戦争をはじめたり、勝手に課税を決めたりするなど、好き勝手な政治をして国民や議会を苦しめた。
一方、日本では天皇はアマテラスの子孫で、いわば“神の化身”なのに、政治の権利は幕府に握られ、天皇には独断でお坊さんに衣を与える権利さえなかった。
しかし、英国ではチャールズ1世に権力が集中し、彼が議会を無視した結果、内乱が起きて王は首を切断されて、この世から”強制退去”させられた。
江戸時代の日本では、天皇の自由や権利は幕府に認められた範囲内でしかなかった。でも、そのおかげか国民に恨まれることはなく、天皇が処刑されて王朝が滅ぶという悲惨な出来事はおこらなかった。
日本とイギリスの歴史ではこの点が違う。
控えめに言っても、「British person」と「IGIRISU JIN」の」違いよりは大きい。
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