日本に興味のある外国人なら、「サムライ」と「ニンジャ」の違いぐらいは誰でも分かる。
でも、そのレベルを超えて日本の歴史を勉強していくと、「天皇」と「将軍」の違いが分からないという外国人がけっこう多い。
知人のアメリカ人の場合、こんな疑問を感じた。
「江戸時代の首都が京都ってどういうこと?政治をおこなう将軍が江戸にいて、時代も江戸だから首都もエドじゃないの?」
日本では天皇のいるところが都だから、江戸は日本の中心都市ではあっても首都ではない。
このアメリカ人は日本のトップを将軍と考えていたから、こんな誤解をしていた。
ネットを見てみると、天皇と将軍の関係がナゾでこんな質問をする外国人がたくさんいる。
・Why did the emperor have less power than a shogun?
(なぜ天皇は将軍より力が弱かったのか?)
・Who is more powerful, the shogun or emperor?
(将軍と天皇ではどっちが強い?)
なかには同一人物と疑う人もいた。
・Does shogun mean emperor?
(将軍とは天皇のことですか?)
こんな質問への答えでよくあるのが、こんなものだ。
「While the Shogun was subordinate to the Emperor (on paper), it was actually the Shogun that wielded the real power.」
(将軍は(紙の上では)天皇に従属していても、実際には将軍が政治権力を握っていた。)
将軍は天皇に任命されて、初めてその地位に就くことができるが、天皇は政治をおこなうことはできない。
だから天皇とは日本の名目上の存在で、実質的なトップとして日本を動かしていたのは将軍だったと説明する外国人が多い。
基本的にはそれでOK。
でも、天皇は日本最高の権威をもっていて、将軍(幕府)の都合で自由に動かせる存在ではなかったから、両者の関係は「on paper」というほど軽くはない。
1859年のきのう11月21日、安政の大獄で吉田松陰が処刑された。
『銀魂』の始まりである。
その原因は、前年に幕府の大老・井伊直弼(なおすけ)が天皇の許可(勅許)を得ないまま、アメリカと修好通商条約を結んだことにある。
1854年の日米和親条約で、日本はアメリカ船の入港を認めて友好関係を結ぶ。
日米修好通商条約で日本は領事裁判権を認めて、アメリカとの貿易を始めたから、本格的な開国はこのときと言える。
直弼はもともと勅許なしという、天皇を無視するような形での条約調印には反対の立場だった。
日本の未来を左右する一大事を天皇抜きで決めたことで、薩摩藩主・島津斉彬は直弼に激怒する。
ほかにも井伊直弼に異を唱える大名、武士、学者などが次々出てくると、井伊直弼は逆ギレして、そうした反対勢力を粛清することにして100名以上が処罰され、吉田松陰や橋本左内など8名が処刑された。
この大弾圧事件を安政の大獄という。
これで恨みを買った井伊直弼は翌1860年に「桜田門外の変」で暗殺された。
これによって江戸幕府の信頼は低下し、大名の心も離れていく。
倒幕運動を激化させる結果にもなったし、安政の大獄は幕府滅亡の一因になったと言われている。
おそらく直弼にはそんな未来が見えていた。
だから天皇の許可(勅許)をもらってから、日米通商航海条約を結ぼうと考えていたが、天皇を意のままに動かすことはできず、同意は得られなかった。で、条約調印を強行して自滅する。
幕末の日本を見れば「on paper」の存在とは実は幕府や将軍で、当時の日本人が真の統治者と考えていたのは天皇だったことがわかる。
王権神授説で王が圧倒的な力で国民を支配していたら、革命が起こって国王は国民に処刑された。
そんなパワーバランスが分かりやすいヨーロッパ史と同じ感覚で、外国人が日本の歴史を見ると、将軍と天皇の関係は理解がむずかしい。
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