今では伝統になったものも、それを始めたころは新奇なものだった。
わたしがこれから行う新奇なものも、やがては先例となって伝統になるだろう。
1333年の7月17日、京都へ到着した後醍醐天皇はそんなことを言って(今の例は昔の新義なり、朕が新儀は未来の先例たるべし)、建武の新政を開始した。
その70年後の1402年7月17日、中国では朱棣(しゅてい)が「永楽帝」として明の皇帝になり、新しい時代を始めた。
後醍醐天皇を中心とする「元弘(げんこう)の乱」と、朱棣(永楽帝)を中心とする「靖難(せいなん)の変」をみると日本と中国の考え方の違いがよくわかる。
ということで今回の内容は、似てるけどまったく違う日中の歴史についてだ。
12世紀の後半、源頼朝が鎌倉幕府が成立させて、武士が日本を統治するようになる。
「いやいや、それはおかしい。日本という国は、天皇を中心とした朝廷が治めるものでしょ」と考えた後醍醐天皇は、政治の権利を武士から奪い返すことを計画する。
でも1331年の6月、後醍醐の側近・吉田定房(よしだ さだふさ)が六波羅探題にその話をチクりやがった。
倒幕計画がバレて六波羅探題の軍が迫ってくると、後醍醐は女装して御所を抜け出したあとに挙兵する。
「いつ鎌倉幕府を倒すの?今でしょ」という声に、後醍醐の息子の護良親王(もりよししんのう)や武将の楠木正成(くすのき まさしげ)が応えて同じく挙兵した。
でも、幕府軍は圧倒的に強かった。
髪や服装を整えることもできず、乱れたままの状態で山の中に隠れていた後醍醐が捕まると、後醍醐に天皇の地位を譲った花園院は「王家の恥」、「一朝の恥辱」と日記(花園天皇宸記)にボロクソ書く。
その後、鎌倉幕府の取り調べに対し、後醍醐天皇は「天魔の所為(悪魔のせいで、自分の責任ではない)などと意味不明の供述をしたとか。
でも後醍醐は結局、島根にある隠岐島へ流された。
これで「天皇ご謀反」は落ち着いた。
と思ったら、護良親王や楠木正成が再決起して、さらに後醍醐天皇が隠岐島を脱出&挙兵したことで事態は急変。
鎌倉幕府を打倒する動きが活発化する。
後醍醐の軍と戦うために幕府から派遣された足利高氏(後の尊氏)は、幕府を裏切って後醍醐の味方になり、逆に六波羅探題を攻撃し、関東では新田義貞が鎌倉を攻めて執権の北条氏を滅亡させた。
これで鎌倉時代は実質的に終了だ。
「悪魔のせいだ。オレは関係ない!」の訴えが却下され、島流しなった後醍醐天皇は1333年7月17日、再び京都へ戻って来て「今の例は昔の新義なり、朕が新儀は未来の先例たるべし」と建武の新政を始める。
ここまでの一連の動きを「元弘の乱」という。
後醍醐天皇は1324年にも鎌倉幕府を滅する計画を立てたとして、側近が処刑されている。
(小中の変)
後醍醐天皇
次の主人公は明の第3代皇帝・永楽帝だ。
1368年に明を建国した朱 元璋(しゅ げんしょう)は、一族の人間を中国各地の「藩王」にして、統治を強固なものにした。
これが「不幸フラグ」になることも知らないで。
そんな洪武帝(朱元璋)が亡くなると、彼の孫が建文帝として明朝の第2代皇帝として即位した。
建文帝は王(藩王)が軍隊を持っていることに不安を感じて、各地の藩を削り始める。
王の地位をはく奪され、庶民に落とされて地方へ送られた者がいれば、その屈辱には耐えられず、宮殿に火を放って家族と焼死した者もいた。
次々と藩王が消されていくのを見て、「もうすぐオレのターンがくる…」と燕王の朱棣(しゅてい)はあせっていた。
*朱棣は朱元璋(建文帝)の息子で、建文帝は彼の甥(おい)にあたる。
追い詰められた朱棣は「座して滅亡する気はない!」と1399年に北平(北京)で挙兵。
ただこのとき朱棣は、建文帝の側近(斉泰と黄子澄)がこの事態の元凶だと定め、コイツラを除去して建文帝を助けることを戦いの理由とした。
「君難を靖(やす)んじる」ということなので、これを「靖難(せいなん)の変」という。
でも、実際にやったことはその真逆。
1402年には首都・南京を攻略すると、朱棣は建文帝を自殺に追い込む。
ただ、焼死したとされる遺体が発見されなかったから、建文帝は僧侶に変装して南京を抜け出し、地方へ逃亡したという説が流れた。
後醍醐天皇は女性で、建文帝は坊さんか。
でもその後、建文帝らしき人物が現れることはなかったから、この生存説はまあ間違いだ。
皇帝のまわりにいる悪いヤツらを倒し(君側の奸)、君難を靖んじる。
そんなカッコいいことを言っていた朱棣は建文帝を消すと、その地位を奪って1402年7月17日、明の第3代皇帝・永楽帝として即位し、反対する人間を処刑しまくり。
儒学者で幕末の日本の志士に影響を与えた方 孝孺(ほう こうじゅ)は、伝説に残るムゴイ殺され方をした。
朱棣の目の前で「燕賊簒位(逆賊の燕王が皇帝位を乗っ取りやがった)」と大書し、これが永楽帝の怒りに触れて、磔にされて一族800余名全てを目の前で処刑された後(妻子は既に自殺していた)
永楽帝だけど、質問ある?
小中の変や元弘の乱で幕府を倒そうとして失敗し、「悪魔のせいですっ」とよくワカラン言い訳をしても、後醍醐天皇は島へ流されただけで命を奪われることはなかった。
それに対し、靖難の変で朱棣(しゅてい)は「皇帝をお助けする!」と言って兵を挙げたのに、皇帝を倒して自分がその座についてしまった。
日本の歴史では、「天皇には絶対に手を出さない」というゴールデンルールがある。
でも、中国史にそんな法則はなく、実力と運のある者が皇帝になることができた。
後醍醐天皇が中国で同じことをしていたら、間違いなく命はなかった。下手したら、「磔にされて一族800余名全てを目の前で処刑された」という目にあっていた。
同じ一族だけの話ではなくて、中国史ではまったく違う血を持つ人間が皇帝を殺し、自分が新皇帝として即位する例は山盛りある。
古代から現在の126代目の天皇まで、皇室が一度も絶えたことがなかった点で日中は決定的に違うのだ。
コメントを残す