「その日、わたしは思い出した。ヤツらに支配されていた恐怖を。鳥かごの中に囚(とら)われていた屈辱を…」
1377年のきょう1月17日、ローマ教皇グレゴリウス11世は改めてそう感じたのでは?
屈辱のはじまりは1303年で、この年、フランス王フィリップ4世が大嫌いだった教皇ボニファティウス8世を襲い、身柄を拘束する「アナーニ事件」が発生した。
(アナーニはフランスの地名で、ここにいた教皇をフランス軍が襲った。)
この出来事をきっかけに、ローマにあった教皇庁は南フランスのアヴィニョンに移動され、それ後約70年間、複数のローマ教皇がフランス王の管理下におかれ、王の言いなりとなっていた。
(アヴィニョン捕囚)
それでも、1377年にやっと解放され、グレゴリウス11世は元のローマへ帰ってくることができた。
教皇はホームに戻ってきたことで、改めてフランスに支配されていた恐怖や、アヴィニヨンに囚われていた屈辱を思い出したのではないかと。
十字軍の遠征が失敗したことで、それを主導した教皇の権威は既に地に落ちていた。さらに、アヴィニョン捕囚によって、教皇の権威はますます低下し、「ザコ化」していき、相対的に王や貴族の力は増大していく。そして、ヨーロッパでは16世紀ごろから、王が絶対的な権力を持つ絶対王政の時代が始まる。
ローマ教皇は絶大な権力を誇っていたが、11世紀にはじまった十字軍が失敗したことで、それを主導した教皇の権威は大きく失墜した。
そのうえで、アヴィニョン捕囚がおきたから、教皇の権威はますます低下していく。
相対的に王や貴族のパワーが増大していき、ヨーロッパでは16世紀ごろから、王が絶対的な権力をもって国を統治する絶対王政の時代がはじまる。
ローマへ帰還したグレゴリウス11世
かなりお疲れの様子。
ここからは日本史の話。
日本にも、格下と思っていた相手に幽閉されるという、かなりレアな屈辱体験をした「元天皇」がいる。
平安時代の末期、平清盛と後白河法皇が権力を争いをしていて、1179年にその対立がピークに達した。
しかし、後白河法皇には権威はあっても武力がない。
平清盛が大軍を率いて京都にやってくると、後白河法皇は「もう政治に口出ししません」とすぐに降伏宣言をした。
その後、清盛は後白河を鳥羽殿に移し、そこで厳しく監視し、幽閉状態においた。
フランス王によって、アヴィニョンに閉じ込められたローマ教皇みたいなものだ。
教皇は約70年もそこに囚われていたが、後白河の運命は違った。
以仁王(もちひとおう)が平家打倒のために動き出すと、状況は一変し、彼は翌年(1180年)に再び京都の中心へ戻ってきた。
その後、政敵だった清盛は亡くなり、アレコレあって、後白河は木曾義仲によってまた幽閉されてしまう。
義仲が戦死すると、後白河はフェニックスのように復活し、「平家を討て!」と全国の武士に命じた。
そして頼朝&義経の「源ブラザーズ」によって、平家は滅ぼされた。
しかし、後白河法皇が政治の権利を取り戻すことはなく、1185年(か1192年)に鎌倉幕府が成立し、将軍が日本を統治することとなる。
1156年に保元の乱がおきた時、後白河天皇が武士の力を利用したことで、武士の政治介入を許し、武家政権が誕生する芽が生まれた。
慈円は『愚管抄』で、保元の乱によって日本国は乱れ、「武者ノ世」になったと書いている。
ヨーロッパでは、ローマ教皇から王へ権力が移るには数世紀かかったが、日本では、天皇(朝廷)から将軍(幕府)への権力移動が後白河法皇の時代でほぼ終了した。
後白河の生涯は頂点と底辺の上下移動が激しく、ヨーロッパ史の何百年もの出来事が圧縮されたようで、本当に濃い中身だった。
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