1853年にペリーがやってきて、翌1854年に日本はアメリカと和親条約を結び、長い“鎖国”の眠りから目を覚ました。
いっぽう、そのころ隣国さんはまだ就寝中で、朝鮮はヨーロッパとの交流もなく、日本以上に厳しい鎖国状態にあった。
日本はペリーのような役目を果たし、1876年に日朝修好条規(江華島条約)を結び、朝鮮は国を開いた。
それから約30年後に、国家が滅亡したとハンギョレ新聞の記事に書いてある。(2024-03-08)
朝鮮はわずか「30年」で滅びた
朝鮮が日本に併合され、国が完全に消滅したのは1910年で、本格的な日本統治はその年からはじまる。しかし、そこに至るまでには、いくつかの段階があった。
重要な契機は1905年に第二次日韓協約を結び、朝鮮が日本の保護国となったこと。記事の見出しにある「滅びた」というのは、それを指している。
これなら、たしかに開国から30年後になる。
韓国メディアを見ていると、第二次日韓協約を「日本の侵略」のはじまりとすることが多い。
ほかにも、1876年に日本が朝鮮を開国させたことをその嚆矢とする指摘もあり、このへんはいろいろな見方がある。
ここでは、1904年の第一次日韓協約を取り上げたい。
朝鮮が30年で滅んだ理由として、記事では国の財政状況を挙げている。
国庫は空っぽで、清の北洋大臣の李鴻章は「国庫に直近の1カ月の備蓄分もない」と舌打ちした。皇室予算が国家予算を吸い込む「二重構造」は、国が滅びるときまで変わらなかった。
朝鮮王朝の末期、国中で腐敗が横行し、ワイロの受け渡しが常識化していた。また、国を支配牛していた閔妃(びんひ:国王高宗の妃)は国を私物化し、国費を好きなように使っていた。
彼女は毎晩のように俳優や歌手を招いて遊んでいたし、ある呪術儀式のために国庫の6倍以上の金を使ったこともある。
このとんでもない浪費のツケは国民に回ってきて、民衆は絶望的で終わりのない貧困に苦しんでいた。
これが国を失う大きな要因となる。
その状態を改善しようとしたのが日本。
1904年に第一次日韓協約を締結し、韓国は日本政府が推薦した者を政府の財政・外交の顧問にすることが決まった。
ちなみに、この時はまだ日露戦争は終わってなく、日本は戦争中だったが、日本軍は朝鮮半島のロシア軍を駆逐したから、韓国は日本の占領下に入っていたのだ。
この協約によって、日本は大蔵省の主税局長だった目賀田 種太郎(めがた たねたろう)を財務顧問として派遣する。
当時、朝鮮を訪れていたイギリス人のイザベラ・バードは、 朝鮮の財政は完全に混乱状態にあったと旅行記に記している。
そのカオス状態が1904年から変わったという。
韓国は日本の財政顧問を受け入れ、初めて日本人官僚、目賀田種太郎の指揮下で、貴重な改革が迅速に行なわれた。
通貨に関する混乱とは別に、目賀田は、腐敗した官界、野放図な出費、組織性を欠いた歳入の徴収と戦わなくてはならなかった。「朝鮮 ――日韓併合前の韓国: 付・満洲――日露戦争前後の状況 (Kindle 版) イザベラ・バード」
腐敗した官界をクリーンにし、野放図だった出費を改めることの必要性はハンギョレ新聞の記事も指摘している。この原因(当事者)は朝鮮政府の官僚たちで、彼らに自浄能力はなかった。
だから、目賀田は全力で改革を断行しなくてはならなかったのだ。朝鮮の官僚たちには恨まれたが、民衆の生活向上には役立ったのでは?
ちなみに、1910年までに日本が朝鮮の改革に対して支出した金額は、約1500万ポンドになるとバードは書いている。
外国人によるこんな財政改革は、主権を侵害する行為に相当すると思う。
19世紀のイギリス人にとっては「貴重な改革」でも、現代の韓国人にとっては「朝鮮侵略」のの一つだ。
コメントを残す