【日本の下駄】幕末のデンマーク人と現代の韓国人が感じたこと

 

ほんじつ7月22日は『下駄の日』。
下駄の寸法を表わす数字で「七寸七分」のように7がよく使われることと、下駄で地面を踏んだ跡が「二二」(22)に見えるから、こんな記念日がつくられた。

この履き物の起源としては、水田で作業をするとき、足が「ズボズボッ」と沈み込まないように使われた木製の田下駄がやがて下駄になったという説がある。
まぁ、田下駄は履き物ではなく、あくまで農機具だという指摘はあるけれど。
もし、田下駄をはじまりとするなら、日本では弥生時代から使われているから、下駄には2千年ほどの歴史があることになる。
昭和30年代のころ、機械化によって下駄の大量生産が進んだことで、日本で下駄が広く普及したが、1940年代からゴム製の履き物が登場すると、下駄の人気は低下していった。

 

エドゥアルド・スエンソン(1842年 – 1921年)

 

幕末の日本へやってきたデンマーク海軍の軍人、スエンソンは日本人の足元に注目し、『江戸幕末滞在記 (講談社学術文庫)』にこんな記録を残している。

「ごく普通のソックスそっくりだが、足の親指用に特別に穴がこしらえてあるところが違う。これは靴をしっかり押さえられるようにした工夫である。」

これは、現代の日本では職人が使う足袋(たび)のことだ。
ネットで画像を見ると親指が出ている足袋は見当たらないが、今の足袋も親指とそれ以外の指が分かれている。
江戸時代から進化して、滑り止めとしてソールにはゴムが付いているから、もうそんな穴も必要なくなったのだろう。
下駄も足袋も天敵はゴムだった。

日本で雨がよく降ることは、江戸時代もまったく同じ。
当時はそのために、大量の小さな石がまかれた道があった。
スエンソンは、ふだん日本人は草鞋(わらじ)を履いているが、雨が降りつづいて地面がぬかるんでいると草鞋ではなく、「木製のスリッパ(下駄)」に履き替えることに注目し、こう書いた。

「これには底に二枚の高い木片がつけてあり、もともと普通の背丈の人間ならたちどころに大男の身長になってしまうほど高いが、ともかく足が泥に汚れないですむ。」

 

話は現代にタイムリープして、知人の韓国人女性がこれに喜んだ。
彼女は京都で「舞妓体験」をした際、顔を真っ白に塗って着物を着て、おこぼ(ぽっくり下駄)を履いた。
あの下駄を履くと、身長が10センチほど高くなる。
彼女は身長の低さにコンプレックスを持っていたから、おこぼで歩くと不安定で危なかったが、高い視点で街を歩くことができて、これまで感じたことのない解放感を感じた。
そんなことはまったく予想していなかったから、うれしいサプライズになったという。

値段や得点などに「プラスα」をくわえ、実際よりも高く見せることを日本語で「下駄を履かせる」と表現する。この韓国人女性が感じたのがまさにそれだ。

いっぽう、韓国語には「チョッパリ」という残念な言葉がある。
これは英語で言う「ジャップ」と同じで、日本人に対する侮辱語であり差別語だ。
豚や牛のヒヅメのように、2つに分かれた足を朝鮮語で「チョッパリ」と呼んでいて、日本人が下駄や足袋を履くと、足の親指とそれ以外の指が2つに分かれるから、これが日本人への蔑称になったという。
朝鮮にも雨が降った日に履く下駄があって、それは「ナマクシン」と呼ばれた。
「ナマクシン」も木で作られた靴で、画像を見ると、下駄と同じように底に2本の「足」はあるけれど、鼻緒がなく、足の指が分かれていない。
だから、韓国の人たちは日本人が下駄を履くのを見て、動物のヒヅメのように感じたのだろう。
あの形は中国や朝鮮半島から来たのではなく、日本で生まれた独特のものらしい。

親指とそれ以外の2つに分かれている理由については、弥生人が水田で作業をしていて親指の筋肉が発達したためとか、足の動きが柔軟になって、歩くときの安定性が増すためなど諸説ある。

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。