パキスタンでは、キリスト教のイベントであるバレンタインを祝うことが裁判所によって禁止された。
前にそんなことを記事で書いたけど、世界最大のイスラーム教の国であるインドネシアでは、バレンタインデーに反対するデモがおきていた。
AFPの記事(2017年02月14日)から。
インドネシアでバレンタインデーに抗議=パキスタンでは禁止命令
AFP通信によると、インドネシア第2の都市スラバヤで13日、イスラム学校の生徒がバレンタインデーに抗議するデモを展開した。
デモには13~15歳の数十人が参加。バレンタインデーは不特定多数の相手との性交渉を助長すると訴え、「バレンタインに反対しよう」と呼び掛けた。
日本でも、バレンタインデーに反対するデモがあった。
異性からもてない人たちが「革命非モテ同盟」という団体を結成して、「バレンタインデー粉砕!」という横断幕をもって渋谷をねり歩いていたという。
彼らが言うには、「街中でイチャつくのはテロ行為と同じ」らしい。
日本では当分の間、平和が続くのだろう。
良いことだ。
日本とオランダの関係はず~っと良かった。
特に日本が鎖国していたときには、地球上で日本の長崎(出島)だけにオランダの国旗があがっていたことがあった。
オランダ人がはそれのことを誇りにしている。
福沢諭吉が慶応義塾で塾生にこんな話をしていた。
ナポレオンの乱にオランダ国の運命は断絶して、本国は申すに及ばずインド他方までことごとく取られてしまって、国旗を挙げる場所がなくなったところが、世界中纔か一箇所を遺した。
ソレは即ち日本長崎の出島である。出島は年来オランダ人の居留地で、欧州兵乱の影響も日本には及ばずして、出島の国旗は常に百尺竿頭に翻々してオランダ王国は嘗て滅亡したることなしと、今でもオランダ人が誇っている。
(福翁自伝 岩波文庫)
福沢諭吉が話したことは、在日オランダ大使館のホームページでも見ることができる。
*現在はリンク切れ
ヨーロッパではフランス革命が勃発し、一時は負け知らずだったオランダも制海権 を失うほどになっていた。
(中略)なによりもドゥーフは出島にオランダの旗を掲げ続けた。出島の三色旗はその頃、地球上ではためく唯一のオランダ国旗だった。
日蘭交流の歴史
国旗はその国を象徴するもの。
だから国旗があがっている限り、その国は滅亡したことにはならない。
インドネシアのバリ島にあるヒンドゥー教の寺院。
垂直に削られた門が特徴的。
インドを旅行していたときのこと。
宿で同じ部屋のオランダ人と話していたときに、気まず~い空気になったことがある。
それは、そのオランダ人のこんな一言をいったから。
「なあ、日本は太平洋戦争のとき、インドネシアでずい分ひどいことをしたんだってな?」
オランダ人にこう言われて、「は?」と目が点の状態になる。
悪名高い「強制栽培制度」でインドネシア人を苦しめたオランダが、どの口でそんなことを言うのか?
オランダはインドネシアを植民地支配していたとき、現地の農民にコーヒーやサトウキビといった商品作物を強制的に栽培させている。
そして、その利益はオランダが奪っていた。
インドネシアのジャワ島の人たちを働かせる一方で、オランダはとんでもない大金をもうけていた。
いずれにせよこの強制栽培制度によって、ジャワ島などの農民の自給自足経済は破壊され、世界市場に直結する商品作物の生産を強制されて、米価騰貴や飢饉に苦しめられることとなった。
次第に農民の反発が激しくなったため、オランダ当局は1870年にこの制度を廃止した。
でもボクには、こんなことを英語で説明できるほどの力はない。
で、このときはこんなことを言ってみた。
「そうだね。確かに日本は悪いことした。日本軍がオランダの植民地支配を終わらせてしまったからね」
オランダ領東インドへは、1942年2月末に日本軍が侵攻した。10日ほどの戦闘の後、在東インド植民地軍は全面降伏し、オランダ人の一部はオーストラリアなどの近隣の連合国に逃亡した。
以後、東インド全域は日本の軍政下に置かれた。「オランダによる350年の東インド支配」が実質的に終了したのである。
(ウィキペディア)
オランダはインドネシアを支配し、現地の人びとを働かせていたことで自分たちは豊かな生活をしていた。
でも日本がそんなおいしい生活を終わらせている。
これはオランダにとっては「最悪」なことかもしれない。
こんなことを言って、オランダ人にはにらまれたけど。
日本とオランダの関係はずっと良かった。
でも両国の間で、一度だけ「歴史の闇」というときがある。
長い長い日本とオランダの関係の歴史で、第二次世界大戦のときだけは例外の時代になる。
このときは、日本とオランダの友好関係に断絶をもたらした。
東京のオランダ大使館のホームページの「日蘭交流の歴史」に、その「日本とオランダの闇」について書いてある。
歴史の闇(1942-1945)
天然資源の確保と大東亜共栄圏の構想を実現するため、1942年1月10日、日本軍はインドネシアに侵入した。
当時オランダの植民地だったインドネシアは、石油や天然ゴム、胡椒、スパイスなど天然資源が たいへん豊富だった。2ヶ月間にわたる戦闘の末、オランダ国軍は降伏した。
日本とオランダの間が途切れたのは、このときだけ。
このときは当然、日本はオランダ人から恨まれた。
でも、インドネシア人からは喜ばれている。
オランダ軍が日本に降伏したことで、オランダによる植民地支配が終わった。
そして、インドネシアは「独立」を達成することができた。
次回、インドネシアの独立と日本との関係を書いていきます。
それにしても、オランダ大使館のホームページで「大東亜共栄圏」という文字を見るとは思わなかった。
この言葉を知ってましたか?
だいとうあ‐きょうえいけん【大東亜共栄圏】
太平洋戦争下、日本が唱えた標語。欧米の植民地支配にかわって日本を中心として東亜の諸民族による共存共栄を樹立することを掲げ、日本のアジア支配を正当化しようとしたもの。
デジタル大辞泉の解説
「太平洋戦争」とはアメリカが呼んでいた戦争の名称で、あの時代、日本は「大東亜戦争」と呼んでいた。
おまけ
福沢諭吉がオランダ国旗の話をしていたときの慶応義塾は、とても殺伐としていたらしい。
殺伐(さつばつ)とは「殺気が感じられるさま。また、うるおいやあたたかみの感じられないさま(デジタル大辞泉の解説)」。
このときは戊辰戦争があって、多くの青年が新政府軍の兵士として徳川幕府の軍と戦っていた。
その戊辰戦争が終わった後、もとの国には帰らずそのまま慶応義塾に入る人たちがたくさんいたという。
その結果、慶応義塾はこんな雰囲気だった。
そうかと思うと、その若武者が赤い女の着物を着ている。これはドウしたのかと言うと、会津で分捕りした着物だと言って威張っている。実に血腥い人物で、一見まず手の着けようがない。
(福翁自伝 岩波文庫)
*分捕り=ぶんどり、血腥い=血なまぐさい
戊辰戦争で略奪した物を身に着けて、慶応義塾で学んでいた人もいた。
今の慶応ボーイからは考えられない。
明治は遠くになりにけり。
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