日本の武士は戦闘レベルが違う!山田長政らがアユタヤ王朝へ。

 

数百年前、タイでも日本刀がつくられていたのを知ってますか?

もう終わってしまったけど、東京国立博物館でこんな特別展がおこなわれていて、そこで「メイド・イン・タイランド」の日本刀が展示されていた。

日タイ修好130周年記念特別展「タイ ~仏の国の輝き~」

その画像はここからどうぞ。

タイで作られた日本刀

 

タイで日本刀がつくれていたのはアユタヤ王朝(1351-1767年)の時代。
アユタヤ王朝時代のタイはとてもオープンな国。
「誰でもウェルカム!」の精神で、いろんな国と交流していた。
日本もその一つ。

ちなみに、今のタイもオープン&フレンドリー!

 

日本とタイ(アユタヤ王朝)の交流をはじめたのは徳川家康。

家康はアユタヤの王と手紙のやり取りをしている。
在京タイ大使館のホームページにその内容が書いてある。

「タイと日本を隔てる海の存在が我々二国間の交流を困難なものとしていました。ですが、両国の商船が定期的に二国間を往復し、両者の関係を今まで以上に緊密なものにしています。あなた(将軍)が私共に対して親愛の情を抱いてくださっていることは明白です。私達の血縁者よりも強い親愛の情を。」

ソンタム王からの書簡

「我々二国間の友好関係を壊すことはできません。両国を隔てる海の存在など、我々が持つ相互の信頼関係の前では大したことはないのです。」

徳川将軍からソンタム王への書簡

タイ日関係

アユタヤは日本と朱印船貿易をおこなっていた。
「朱印船貿易」というのは中学校の歴史の授業で習いましたね。

幕府からもらった「朱印状」を持った朱印船がおこなっていた貿易(そのまんま!)。

アユタヤは日本から鹿の皮や鯨の皮などを輸入していたという。

 

徳川家康の朱印状(ウィキペディアから)

 

実はこのときアユタヤ王朝は、鹿や鯨の皮だけではなくて武士も”輸入”していたのだ。

 

この時代のアユタヤは、カンボジアやビルマとの争いが耐えなかった。
「どっかに強い兵士がいないかなあ」とアユタヤ王朝の王は思っていた。

そんな時、出会ったのが日本の武士です。
このとき日本には、戦国時代をたたかって生き抜いた武士がたくさんいた。
東南アジアで、彼らの戦闘レベルはけた違いだったらしい。

歴史学者の小和田哲男氏がこう書いている。

戦国時代を経験していないシャムやカンボジャ、ルソンなどの国々の人びとにとって、戦国の経験をもつ日本の武士は脅威だったのではなかろうか。一人ひとりの武力がすぐれていたというだけではなく、その戦略にしても戦術一つをとってみても、そのころの東南アジア諸国よりも数段上をいっていたことはいうまでもない。

「史伝 山田長政 (小和田哲男)」

アユタヤはバンコクのすぐ上にある。
車で1時間半ぐらい。

 

この時代の日本からアユタヤに渡った日本人で、もっとも有名なのが「山田長政」という人。

山田長政 ?~1630

駿河の人。1612年頃、タイのアユタヤ朝に渡り、アユタヤ日本町の長。のちにリゴール(六昆)太守となるが、政争で毒殺された。

(日本史用語集 山川出版)

リゴールというのはタイにある地名で、山田長政はそこの長官に任命されている。

ちなみに、友人のタイ人に「ヤマダ ナガマサ」といっても通じなかった。

でも、山田長政のタイでの呼び名「オークヤー・セーナーピムック」というと「ああっ!その人ですか!学校で習いました」とすぐわかる。

 

山田長政がリーダーをしていた日本人町では、栄えていたときには1500人ほどの日本人が住んでいた。

アユタヤの日本人町がつくられたのは1616年のとき。
この年、タイとの交流を始めた徳川家康がこの世を去っている。
「イロイロあったね家康さん」で覚えた人も多いと思う。

アユタヤの日本人町は今では、タイの観光スポットになっている。
といっても、ここに来るのはほぼ日本人だけだろうけど。
当時のものは残っていないから。

*世界史に興味がある人は、1616年に中国最後の王朝となる清(後金)が建国されたことも覚えておこう。

 

山田長政が活躍した時代に、日本刀もアユタヤ王朝に輸入されていた。
16世紀から17世紀にかけて、アユタヤは日本刀を積極的に受け入れていたというから、それだけ激しいたたかいが行われていたのだろう。

でも日本が鎖国政策をとり、タイとの貿易は停止される。
このことからタイでの日本刀製作がはじまったと、東京国立博物館のホームページに書いてある。

当然のことながら日本刀の輸入量も激減し、タイ国内の需要をまかないきれなくなりました。その結果、日本よりもたらされた日本刀をモデルにタイで日本刀を模した刀=日本式刀剣が製作されることとなるのです。

タイで作られた日本刀

この時代に製作された一刀が、はるか未来に東京国立博物館に展示されることになる。

 

 

おまけ

先ほどの日本史用語集に「駿河の人」と書いてあったように、山田長政は駿河(静岡県)の出身とされている。

ということで、静岡市では毎年「長政まつり」が開かれている。

山田長政は、駿府の馬場町で生まれました。

その生家跡には、現在長政像(左写真)が建っています。

長政まつり

 

おまけのおまけ

今のアユタヤ
ビルマ軍によって滅ぼされ、廃墟になったまま残されている。
記事の上の仏像の頭部もここにある。

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。