ちょっと前に「豆まき」について記事にした。
そのついでに、書いておきたいことがある。
それは「京都と鬼門」について。
ここでいう「鬼」とは、日本でよく見る頭に角があって虎がらのパンツをはいた鬼ではない。中国語でいう「鬼」のこと。
中国の鬼は死者の霊魂を意味する。
鬼
幽霊,亡霊.(中国では人が死ぬと魂が残って‘鬼’になるという迷信がある)
「白水社 中国語辞典」
昔の中国や日本では「鬼が人間に病気や死など、いろいろな不幸や災いを運んでくる」と信じられていた。
日本語の「鬼」は「穏(おん:姿が見えないもの)」という言葉からできたとされる。
豆まきで家から追い出すのはこの鬼のこと。
こうした鬼には入って来る方角があって、それを「鬼門」という。
よくいわれる鬼門は「北東」だ。
これは表鬼門という。
平安時代(794~1185年ごろ)がはじまる前、奈良から京都に都を移すときに「京都の鬼門」が問題になった。
ちなみに平安時代といえば、天皇・貴族が政治権力を持っていたという点で、仏教勢力が政治に口をはさんでいた奈良時代とは違う。
奈良時代には道鏡というとんでもない僧がいた。
道鏡の後ろ盾を受け、弟の浄人が8年間で従二位大納言にまで昇進するなど、一門で五位以上の者は10人に達した。これに加えて道鏡が僧侶でありながら政務に参加することに対する反感もあり、藤原氏らの不満が高まった。
「ウィキペディア」
調子に乗りまくった道鏡は、しまいには天皇になろうとしやがる。
でもそれは、和気清麻呂(わけのきよまろ)たちによって阻止された。
「仏教の坊さんうざっ!」と思った朝廷の人たちが、奈良から都を移そうと考えた。
東大寺や興福寺といった大寺院はそのまま奈良に残して、首都機能だけを移転する。
そうすれば、仏教勢力が政治にかかわってくることを防ぐことができる。
今風にいえば、政治から宗教を切り離す「政教分離」の考え方ですね。
で早速、都を移す先を探したわけだ。
その候補地として、浜松市の「都田」があったという。
「都田(みやこだ)」という地名の由来は、桓武天皇が「『ここは都だ』と言ったから」という言い伝えがある。
浜松市民のボクでも信じてないけど、そういう話はある。
それで結局、今の京都が選ばれる。
でも、都を京都に移すとき、朝廷の人たちにはこんな不安があった。
「京都の鬼門をどうする?」
生者に病気や死をもたらす鬼は鬼門から入って来る。
「京の都に鬼が入って来ないように、仏教の力で鬼門を封じてしまおう!」ということになって、京都の鬼門(東北)に比叡山延暦寺が建てられることになった。
だから比叡山延暦寺は平安京にとって鬼門封じの役割があるのだ。
奈良時代には仏教勢力を嫌っていた朝廷の人たちが、仏教の力で首都を守ろうとしている。
仏教を国のコントロール下に置けば問題はない、ということだ。
でもしばらくすると、やっぱり仏教勢力が政治に口をはさみやがる。
それで、そうした勢力に対抗するため、朝廷側は武士を雇うようになった。
そしたら今度は、武士が政治に口出しするようになってしもた。
これは、新興勢力の武士が、仏罰や神威を恐れなかったためである。これにより、武士が中央政界での発言権を徐々に持つようになる。
「強訴」
しまいには、武士が朝廷から政権をうばって鎌倉幕府爆誕。
おっと、話がずれた。
平安京遷都の前から、比叡山には最澄が住んでいて草庵(そうあん)があった。
これを「国立の鬼門封じ寺」にして、以後、朝廷が保護するようになる。
比叡山延暦寺のホームページによると、「延暦」はそのことにちなむ。
最澄が開創した比叡山は、日本の国を鎮め護る寺として朝廷から大きな期待をされ、桓武天皇時代の年号「延暦」を寺号に賜りました。
ちなみに、「鬼門封じ」の寺のせいか、タイ人がここにビビっていた。
比叡山の山道を車で走り終わった後に、一緒にいたタイ人がこんなことを言っていた。
「あそこは何かコワいですね。ピー(お化け)が出るかと思いました」
猿は出るけど、お化けは出ねえよ。
たぶんきっと。
おまけ
京都御所の清涼殿。
こちらの記事もいかがですか?
韓国のソウルを漢字で書けない理由:漢城?京都?首爾(首尔)?
「日本=ケンシロウ説」② 中国(長安)に学び、京都をつくった。
コメントを残す