はじめの一言
*明治天皇のお言葉
「自分は楽しむために生まれてきた人間ではない」
(明治天皇を語る ドナルド・キーン)

今回の内容
・蚊の大群に襲われる天皇
・日清・日露戦争での明治天皇
・蚊の大群に襲われる天皇
「常に国民とともに」
なんていう言葉は、選挙のときによく聞く。
けど、こう言っている人をどこまで信じていいのかが、よくわからない。
でも、明治天皇がしたことや言ったことを知ると、「『常に国民とともに』というのは、こういうことなのか」ということがわかる。
明治天皇は、日本全国をまわって日本と日本人を直接みていた。
これは、天皇としては歴史上初めてのことになる。
天皇が地方にいくときには、まわりの人たちにこんな命令をしている。
お供の人間には、往来の邪魔をしない、農作業に支障をきたすようなことはしないことが命じられました。国民のありのままを見ることが重要だと思ったのでしょう。
(明治天皇を語る ドナルド・キーン)
明治時代の天皇といえば、明治憲法で「神聖にして不可侵の存在」とされていて、特別な存在だった。
でも、そんなことは「蚊」には関係ない。
明治天皇が地方に行ったときには、ようしゃなく天皇に襲いかかっている。
巡幸中のある日、寝ようとした際、蚊の大群襲われたことがありました。侍従が蚊帳に入るよう進言すると、天皇は、一般の民衆には蚊帳がない、自分は一般の民衆と同じような体験をしたい、貴族のように立派な蚊帳の中にいては民の気持ちがなどわからない、蚊に襲われることがないような巡幸は本当の巡幸ではない、と答えた。
(明治天皇を語る ドナルド・キーン)
平成の今では、「移動では、ファーストクラスに乗らないと100%の体調で仕事ができない」という知事がいたらしい。
ずい分時代がかわってしまった。

また、明治天皇は、夏に暑くなっても避暑地には行かず、冬に寒くなっても避寒地にも行かなかった。
天皇はこう応えるのです。朕は臣民の多くと同じことがしたい。天皇は日本人の多くが酷暑、酷寒にもかかわらず、働いているのに、自分だけが一人のんびりと静養する気にはとてもなれなかった。
(明治天皇を語る ドナルド・キーン)
でも平成の現代は、国民の税金でハイヤーにのって毎週別荘に行っていた知事がいたらしい。
くり返しになるけど、明治時代において天皇とは神にも近い存在だった。
天皇はその尊厳や名誉を汚してはならない神聖不可侵で、強大な天皇大権が存在した
「日本史用語集 (山川出版)」
こうした文から思い浮かべる天皇と実際の天皇とは、ずい分ちがう。

明治天皇がお好きだったという御所の庭
・日清、日露戦争での明治天皇
「ふつうの日本人と同じ思いをしなければならない」という明治天皇の思いは、日清戦争のときも変わらなかった。
大本営のあった広島にいたときは、冬の寒い日、まわりの人が天皇に暖炉(だんろ)を使うようにいっても、「戦場にいる兵士たちには暖炉はない」とこれを断っている。
これは日清戦争だけはない。
日露戦争のときには、明治天皇は東京にいたけれど、同じように皇居の火鉢を取りのぞいている。 そして、前線にいた軍人が、明治天皇のこの行為を知って驚き、さっそく同じように火鉢を取りのぞいた。
明治天皇は出生軍人の労苦を思し召され、恐れ多くも宮中御在所の火鉢を廃せしめ給うたとのことである。そのことを法庫門陣中で漏れ承ったのであるが、乃木大将は陛下のこの思し召しを恐懼せされ、自分もまた司令部公室私室の火鉢を撤去させられた。
「乃木大将と日本人 (S・ウォッシュバーン)」
ここに出てくる「乃木希典(のぎまさすけ)」という人をどれだけの人が知っているのだろう?
東京にある「乃木坂」の「乃木」は、この乃木希典からきている。
でも、今の人なら「のぎ」と聞いたら「乃木坂46」を思い浮かべるのかな?
日本史に与えた影響の大きさなら、圧倒的に乃木希典だけどね。
「常に前線の兵士のことを常に考えていた」ということは、このようなことからもわかる。
軍服を新調してはとの声にも裏に継ぎはぎすることを選ぶなど、戦っている兵士の苦労を思ったら不便などない、という考えでした。すべては兵たちと共にあることを考えてのことです。
(明治天皇を語る ドナルド・キーン)
ここまでは日清戦争での明治天皇の様子。
これから約20年前の西南戦争では、明治天皇はこのようなことをされている。
西南の役では官軍側にも多数の死傷者がでました。
天皇は士官などを晩餐に呼び労をねぎらいます。そのなかに腕や指をなくした者、片目を失った近衛士官も含まれていた。
彼は一人一人に負傷した場所や日時を聞き、「疼痛既に去れりや」と彼らの傷痕に触れてあげたのです。負傷者はそのやさしさに泣き崩れ、それを見守っていた者たちも涙を流さずにはいられませんでした。(明治天皇を語る ドナルド・キーン)
日清戦争は日本にとって初めてとなる近代戦だった。
これで清に勝った日本は、全国各地で勝利にわく。
福沢諭吉はうれし泣きをしてこういっている。
「日清戦争など官民一体の勝利、愉快とも有難いとも言いようがない。命あらばこそコンナことを見聞きするのだ、先に死んだ同志の朋友が不幸だ、アア見せてやりたいと、毎度私は泣きました
(福翁自伝 福沢諭吉)」
それでも明治天皇は冷静だった。
戦争が勝利に終わり、清と講和条約が結ばれたのち、天皇は両国の友好関係回復に関する詔勅を公布しました。
平和の保持こそが天皇の使命である、しかし不幸にも両国の間に戦争が起こってしまった。勝利できたのは国民すべてのお陰である。
そして最後に、日本の勝利に驕慢となり、理由なく相手国を侮蔑するなど友好国の信頼を失うようなことがあってはならない、と述べている。(明治天皇を語る ドナルド・キーン)
ここでは、「理由なく相手国を侮蔑する」ことを「あってはならない」と述べらている。
日露戦争で「敵軍が降伏した」と聞いたときにも、これと同じことを述べられた。
日露戦争において旅順陥落の知らせを聞いた明治天皇の最初の発言は、降伏したロシアの将軍ステッセルの武人としての名誉を大切にせよというものでした。
よかったとか、すばらしい勝利だということではなかった。敵の将軍のことを心配していたのです。これは立派な態度だと私は思います。(明治天皇を語る ドナルド・キーン)
自国民だけではなくて、敵の国民のことまで考えていた皇帝というのは、世界でもどれだけいたのだろう?
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