最近、韓国で「合掌騒ぎ」があった。
韓国にやって来たハリウッドスターが、胸の前で手を合わせる「合掌」をした。
韓国人へのあいさつとして合掌をしたのだけど、これが一部の韓国人を不快にさせてしまう。
でも同時に「そんなことを気にするべきではない」という人もいて、韓国で「欧米人の合掌」について論争が起きた。
くわしいことはこの記事をご覧あれ。
”西洋人の合掌”に怒る韓国人。韓国の東南アジアへの見方って?
タイのマクドナルド
タイで合掌は「ワイ」と言う。
日本だったら、こんな騒ぎはない。
来日したハリウッドスターが、日本人へのあいさつとして合掌をする。
それを問題視する人はいない。
ジョニー・デップが合掌したとき、「不愉快だ!」と怒った日本人なんて聞いたことがない。
日本では完全にスルー案件。
なのになんで韓国では、全国紙が報道するほどの騒ぎになったのか?
これは、「合掌というあいさつは韓国の文化ではなくて、韓国人の価値観に合っていないから」ということが一番の理由だろう。
韓国紙の中央日報は「仏教式の合掌あいさつをして論争となっている」と、合掌が仏教のものであることを強調した書き方をしている。
日本の新聞なら、「仏教式の」なんて言葉を使わずに「合掌」とだけ書くと思う。
「ハリウッド俳優、合掌あいさつめぐり論争」という騒動の根底には、日本人とは違う韓国人の宗教観がある。
ということで、今回のテーマは宗教でっせ。
いまの韓国の宗教事情と、日本人と韓国人の宗教観の違いについて。
その違いを生んだ「朝鮮時代の仏教弾圧」について書いていきまっせ。
いまの韓国の宗教事情とは、どんなものなのか?
2005年の韓国統計庁の発表では、韓国で一番多いのが無宗教(46.7%)で、キリスト教(プロテスタント18.3%、カトリック10.9%)、仏教(22.8%)と続く。
くわしいことは「韓国の宗教」を見てほしい。
2018年のいまも、これと大きく変わっていないはず。
「ある宗教に入信する人が大量にあらわれた!」なんていう韓国ニュ―スは聞いたことがない。
韓国の人たちとつき合っていると、こんなことをよく思う。
「日本と比べたら、韓国は仏教の存在感がうすいなあ」
ハリウッドスターの合掌を見て、多くの人が反発した理由にもきっとこのことがある。
先ほどのデータだと、韓国人の約30%がキリスト教徒で仏教徒は約23%だった。
韓国ではキリスト教の影響がめっちゃ強い。
韓国に行って、教会の数の多さに驚いたのはボクだけじゃないはず。
韓国人の大学生3人と清水寺に行ったときにも、そのことを感じた。
1人の韓国人が清水寺の仏像を前にして、残念そうにこう言う。
「本当に素晴らしい仏像ですね。でも私はキリスト教徒だから、手を合わせて拝むことができません。本当なら、就職活動がうまくいくようにお願いをしたいのですけど」
別の韓国人も同じ。
彼もキリスト教徒だから、仏像に対して手を合わせることができないと言う。
残り1人の女の子は「私はもう、キリスト教徒をやめましたから」と言って仏像に合掌していた。
この後、ご飯をたべているときに、1人が「おまえ、明日何する?」と友人にたずねる。
予定を聞かれた韓国人は、「明日は教会に行く。その後の予定はない」と答える。
韓国人のあいだで、キリスト教がこれほど深く根づいているとは思わなかった。
韓国でも「卍」はお寺のマーク
仏教徒の韓国人からも、話を聞いたことがある。
その韓国人は仏様の誕生日には肉を食べない。
その日はお寺に行き、仏像に祈って精進料理をもらう。
お寺では、肉のないビビンバなんかが出るらしい。
その韓国人の女の子は、日本人の宗教心のなさに驚いていた。
「仏教徒でも、仏様の誕生日を知らない人がたくさんいました。あれにはビックリしましたね」
仏様の誕生日は4月8日。
でも日本では、クリスマスの方が大事。
韓国人よ、これが日本人の宗教観だ。
「素」は、肉を使っていない料理のことをいう。
台湾人が仏教の精進料理を「素食」と言っていた。
元来は宗教的な理由で食べられていた精進料理であるが、健康的な理由からも普及している。中国語の素食は菜食の意味であって、「質素な料理」ではない。
イザベラ・バードというイギリス人が、19世紀末の朝鮮を旅行した。
彼女は、朝鮮と日本や中国の違いをこう書いている。
清国と同じように孔子廟とその教えを記した碑があるのはべつにして、ソウルには公認の寺院がひとつもなく、また僧侶が城内にはいれば死刑に処せられかねなかったので、結果として清国や日本のどんなみすぼらしい町にでもある、堂々とした宗教建築物のあたえる迫力がここにはない。
「朝鮮紀行 イザベラ・バード (講談社学術文庫)」
仏教僧は首都(城内)に入ってはいけない。
入城したら、死刑にされる可能性があった。
なんで朝鮮では、仏教がここまで嫌れていたのか?
イザベラ・バードの本には、豊臣秀吉の朝鮮出兵のときに「日本人が仏教僧に変装して都に入る許可をもらい、守備隊を虐殺したからだと朝鮮人はいう」と書いてある。
でも、これは違うだろう。
16世紀の朝鮮出兵の前から、朝鮮(1392年~1910年)では仏教が弾圧されていた。
この時代、朝鮮仏教は国からひどくいじめられていた。
*実際には朝鮮出兵のとき、仏教僧は日本軍とたたかっていた。
1500人の門徒を義僧軍として組織した休静(きゅうせい)という朝鮮人の僧はわりと知られている。
休静が義僧軍のリーダーとなって日本軍とたたかったことが認められて、朝鮮の廃仏政策が少しゆるめられた。
話を朝鮮(1392年~1910年)時代の仏教弾圧にもどす。
前王朝の高麗(918年~1392年)は、国家として仏教を保護していた。
だからこのとき、仏教はとても強い勢力があった。
この高麗を倒してできたのが朝鮮王朝。
高麗と違って、朝鮮は儒教を保護する。
「高麗が保護した仏教なんていらね」ということで、仏教は前時代の遺物として嫌われた。
韓国の高校生向けの歴史教科書にはこう書いてある。
朝鮮時代の仏教は、儒教理念を掲げた国家による干渉と統制をうけてその活動を制約された。
「韓国の歴史 (明石書店)」
「制約された」とあいまいな表現で書いてあるけれど、この時代の仏教は、蔑視・差別されてひどい弾圧を受けていた。
例えば太宗が朝鮮国王だった時代には、全国に1万以上もあった寺が242だけに限られ、あとは廃寺にされてしまった。
寺院の土地や奴卑といった財産も国が没収する。
奴婢(奴隷)といっても、「お手伝いさん」ぐらいの人だったと思う。
僧侶の身分も賎民階級に落とされてしまった。
その結果、朝鮮末期には「ソウルには公認の寺院がひとつもなく、また僧侶が城内にはいれば死刑に処せられかねなかった」という状態になる。
友人の韓国人は「仏教の寺は山にあります。ハイキングに行くと、よく見ますよ」なんてことを言う。
ソウルの真ん中に「曹渓寺(チョゲサ)」というお寺があるのだけど、友人の韓国人はそれを知らなかった。
「え?そんな街中に仏教のお寺があるんですか?」と驚く。
ソウルに生まれ育った韓国人が、日本人のボクが知っているお寺を知らない。
これにはこっちが驚いた。
曹渓寺(チョゲサ)にいた職員(僧?)に聞いた話では、朝鮮時代に仏教が徹底的にいじめられたため、都市部から寺が消えて、山奥にしか残らなかったらしい。
「お寺は山にあります」と言った韓国人の認識も、このことに由来するのだろう。
そんなワケで、韓国人と日本人の宗教観の違いは「仏教が弾圧された時代があったかどうか?」という違いによるところが大きい。
ハリウッド俳優の合掌に「不快だ」と韓国人が感じた背景にも、朝鮮時代におこなわれた仏教弾圧の影響があるはず。
むかしから仏教に慣れ親しんでいる日本人には、そんな反発はない。
おまけ
日本でも、仏教が弾圧された時期はある。
明治時代に「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく:仏教を廃し、釈迦(しゃか)の教えを棄却する)」という仏教の排斥運動が起きた。
高校ではこう習う。
廃仏毀釈
仏教を排斥する行動や政策。
神仏分離令を機に廃仏運動が激化し、全国的に寺院・仏像などの破壊、藩による寺領の没収が続出。「日本史用語集 (山川出版)」
このときの日本はおかしかった。
僧侶の中には神官や兵士となる者や、寺院の土地や宝物を売り逃げていく者もいた。現在は国宝に指定されている興福寺の五重塔は、明治の廃仏毀釈の法難に遭い、25円で売りに出され、薪にされようとしていた。大寺として広壮な伽藍を誇っていたと伝えられる内山永久寺に至っては破壊しつくされ、その痕跡すら残っていない。
でもこれは一時的なことで、日本人の宗教観に大きな影響を与えてはいない。
ソウルにある曹渓寺(チョゲサ)
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学校で仏教弾圧を習っておきながら対馬から盗んだ仏像を日本が盗んだものと考える韓国人の神経が理解出来ない。そもそも韓国のキリスト教はキリスト教と呼べるものなのでしょうか?罪を憎んで人を憎まず、ただし日本人は例外な人達ですから。
対馬の仏像に関しては、韓国で一般的に流れている情報は日本のものとは違うでしょうね。
あれがこんなに長引くとは思いませんでしたけど。
韓国メディアが伝える情報は韓国に都合の悪いとことは大幅にカットされたものだと思います。
認識の違いは仕方ないと思います。