始めの一言
「柿崎は小さくて貧寒な漁村であるが、住民の身なりはさっぱりしていて、態度は丁寧である。世界のあらゆる国で貧乏にいつも付き物になっている不潔さというものが、少しも見られない。彼らの家屋は必要なだけの清潔さを保っている
(ハリス 江戸時代)」
「逝きし日の面影 平凡社」
今回の内容
・同じアジア人として
・戦争中の同盟関係
・戦後の日本とタイの関係
・同じアジア人として
前回は、江戸時代の日本とタイの関係についてかいた。
今回は、現代の日本とタイの関係について。
日本とタイのおつき合いがはじまったのは、1887年になる。
外務省のHPに、そのことが書いてある。
まさにこの時期、日本とタイは正式な国交を開始しました。
すなわち1887年(明治20年)9月26日、「日暹(にちせん)修好通商に関する宣言」(日タイ修好宣言)により、正式に国交が開かれたのです。この宣言は、両国が国交を結び、通商・航海を奨励し、将来の条約をもって詳細を規定するという簡単で抽象的な内容のものでしたが、これは明治の日本政府が東南アジア諸国と外交関係を結んだ最初の条約でした。
「日タイ交流の歩み」
日本とタイを考えたときに大事なポイントとなるのは、これ。
両国ともに、「独立を守り続けてきた」ということ。
当時は、アジアの多くの国がヨーロッパの植民地になっていて、日本とタイも「植民地になってしまうかもしれない」という危機感はもっていた。
だから、1887年に「日タイ修好宣言」を出したというのは、同じアジア人として日本にとってもタイにとっても心強かったんじゃないかな?
バンコクでのアニメソング祭り?
1933年に、日本が国際的に孤立するというできごとがあった。
それが日本の国際連盟の脱退
国際連盟の脱退
1933年2月、国連総会はリットン報告書採択と満州国不承認を42対1(棄権1)で採択した。日本はこれを不服として3月27日国際連盟を脱退、国際的孤立への道をふみだした。
(日本史用語集 山川出版)
この中に「42対1(棄権1)」というのがある。
このとき唯一棄権した国がタイ。
なんでこのときタイだけが棄権したのかは、はっきり分からない。
でも、このとき日本はタイに感謝を伝えている。
ウィキペディアによれば、タイには「同じアジア人」という意識があったらしい。
大日本帝国と同じく独立を保ってきたタイは、同じアジア人として日本の政策にはおおむね好意的で、満州事変後のリットン調査団の報告によって、国際連盟における満州国の合否判断の際も投票を棄権し、満州国も国家として承認してきた。
(ウィキペディア)
ただ、タイにとって一番大事なことは、国際社会の中でタイという国を守ることだったはず。
それを第一に考えたら、タイが絶対にしてはいけないことは、欧米や日本という大国を敵にまわすこと。
どちらも敵にまわしたくなかったから、「棄権を選んだ」ということもあると思う。
ちなみに、「国際的孤立への道をふみだした」という日本は、その後、同じく国際連盟を脱けたドイツ・イタリアと同盟をむすんで第二次世界大戦へ突入してしまう。
バンコクのスカイトレインの駅
・戦争中の同盟関係
このことは知ってましたか?
第二次世界大戦では、タイは日本と「日泰攻守同盟条約」という軍事同盟をむすんでいた。
条約の内容はこのようなものになっている。
アジアにおける新秩序建設、相互の独立主権の尊重・相互の敵国または、第三国との交戦の場合の相互同盟国としての義務を果たすことなどが明記された。
1941年12月21日に公布され、タイ政府は日本の戦争へ積極的な協力姿勢を内外に示した。(ウィキペディア)
ただ、日本と同盟を結んだことについて、タイの高校生が使う歴史教科書では、こう書いてある。
タイ政府は、日本軍がタイ領を通過しビルマとマレーへ向かうことを認めざるをえなかった。
タイは、日本に対抗するだけの充分な武力を持たなかったのである。そしてタイは、自己防衛のために日本と同盟を結んだ。(タイの歴史 明石書店)
現在のタイからしたら、この時代の日本と同盟を結んでいたことは都合が悪い。
だから、こういう書き方になったのだろう。
ちなみに、日本のことでいえば日清戦争と日露戦争での日本の勝利についてこう書いてある。
中国とロシアに対する日本の勝利は、ヨーロッパの植民地下にあるアジアの国々に影響を与え、小さな国のアジア人も、白人の大国ヨーロッパに勝てるかもしれないという確信をもたらした。この勝利はアジア諸国に影響を与えただけでなく、日本は自国の威力に自信をつけた。
(タイの歴史 明石書店)
動機はどうあれ、日本とタイが同盟をむすんでいたことは事実。
このことによって、タイでの被害は少なくすんだ。
現在のタイが日本にとても良い印象をもっているのは、これも理由の一つだと思う。
でも、睡眠薬強盗には要注意!
宿の壁に貼られていた紙
・戦後の日本とタイの関係
戦後の日本とタイの関係はとても良い。
日本には天皇がいてタイには王がいて、お互いの交流があることがその大きな理由。
そんな日タイの友好をしめすエピソードを一つ紹介したい。
1960年代、タイ王国の食糧事情が難しいと知った魚類学者でもある皇太子明仁親王(今上天皇)は、タイ国王にティラピアを50尾贈り、「ティラピアの養殖」を提案。
タイ政府はそれを受け、現在、タイでは広くティラピアが食されている。(ウィキペディア)
これはタイ人の友人も知っていて、タイではけっこう有名な話らしい。
まあ、ここまではいい。
ティラピアは、タイ語では「プラー・ニン」という。
でも、次のはビミョウ。
このエピソードにちなみ、タイでは華僑により「仁魚」という漢字がつけられ(ウィキペディア)
この「仁魚」の「仁」って、「明仁親王」からとった字だろう。
まあ、悪意はないから「マイペンライ(気にするな)」というものかな?
あと、意外なところでは、現在の国王ラーマ9世の意思をうけてタイ政府の関係者が靖国神社に参拝をしている。
バンコクのショッピングモール
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