浜松市を知って!なんで家康くん?「出世城」と呼ばれる理由

 

はじめの一言

「これを読め。日本の武士道の高尚なる思想は、我々アメリカ人が学ぶべきことである。(中略)この武士道は全部アメリカ人が修行し又実践してもさしつかえないから、お前達五人はこの武士道をもって処世の原則とせよ
(セオドア・ルーズベルト 明治時代)」

「日本賛辞の至言33撰 ごま書房」

 

 

今回の内容

・なんで家康は「浜松の人」か?
・無様な家康の絵
・浜松城が「出世城」の理由

 

・なんで家康は「浜松の人」か?

「なあ、なんで徳川家康が浜松のキャラなん?家康って江戸幕府を開いたし、『東京』ってイメージが強いんだけど」

こんなことを友だちにきかれることがある。

「なんで浜松のゆるキャラが家康なのか?」

これに答えられる浜松人はどれくらいいるんだろう?

 

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「井伊直虎」って、女性だからね!
男じゃないよ。
韓国に金玉男という女性がいれば、日本には井伊直虎という女性がいるんです!

 

家康は愛知県の岡崎市で生まれている。
静岡市で過ごした後、浜松市に移り住んでいた。
その後、東京(江戸)に行って江戸幕府の初代将軍になっている。
そして、引退後は静岡(駿府)で過ごしていた。
タイの天ぷらを食べて食あたりで亡くなったらしい。

 

こうみると、家康は日本各地を転々としている。
なのに何で家康が「浜松の人」になったのか?

これは、徳川家康が浜松で過ごしていた時代というのが、のちの家康をつくった「試練のとき」だったかららしい。

徳川家康は29歳~45歳までの17年間を浜松城で過ごしました。有名な姉川、長篠、小牧・長久手の戦いもこの期間中の出来事で、特に元亀3年(1572)の三方ヶ原の合戦は、関ヶ原の合戦以上の激闘であったと伝えられています。
家康にとって、浜松在城17年間は、徳川300年の歴史を築くための試練の時代だったと言えるでしょう。

浜松城公園HP

 

そういえば、浜松にきた韓国人の友だちが家康くんを見て、こんなことを言っていた。
「え?これが徳川家康ですか?この人は韓国でも有名で人気がありますよ」

なんで徳川家康が韓国で人気があるのか?

韓国人は朝鮮出兵をした豊臣秀吉を大っきらいで、家康がその豊臣氏を滅ぼしたことがその理由らしい。
「敵の敵は、私の友」という感じなんだろう。

 

だもんで、浜松のゆるキャラになっただに。

 

・無様な家康の絵

家康といえば「家康くん」もいいけど、この絵が有名。

 

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徳川家康(ウィキペディア)

 

三方ヶ原の合戦は、元亀3年(1572)、武田信玄と徳川・織田連合軍が浜松市郊外の三方ヶ原台地で激突した戦いで、家康の生涯で最大の敗戦と言われています。

武田軍3万人に対して家康軍はわずか1万人足らず。これでは勝負にならないと兜を脱いだ家康は、家臣に化けて命からがら浜松城に逃げ帰ったのでした。
城に帰った家康は、敗戦直後の意気消沈した自分の顔の絵を描かせ、生涯この絵を大切にし、敗北を自戒したと伝えられています。

浜松城公園HP

 

この家康の絵を見たアメリカ人が驚いていた。

「普通は、こういうのは隠すもんだろ?ふつう、支配者は自分のかっこいい姿を絵に描かせるんだけどな。馬に乗ったナポレオンの絵を知ってるか?歴史上の英雄って、あんな感じの絵や像を残すんだよ」

 

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ナポレオン(ウィキペディア)
ふつうは、こんなかっこういい絵を残す。

 

徳川家康といえば、戦国時代を生き残って江戸時代を始めたという日本の歴史の中でもトップクラスの英雄だ。
そんな英雄の「無様な絵」は海外で見た記憶がない。

 

「でも、それが日本人だと思うな。『苦しかった自分の姿を残して、常に忘れないようにした』って、日本人の考え方だよ」

そうかもね。

 

 

・浜松城が「出世城」の理由

浜松城は「出世城」と呼ばれている。

浜松城には、藩政260年の間に25代の城主が誕生しました。在城中に幕府の要職に就いた者も多く(老中5人、大坂城代2人、京都所司代2人、寺社奉行4人※兼任を含む)、浜松城は「出世城」と言われるようになりました。

なかでも有名なのが天保の改革を行った水野越前守忠邦。天下統一を果たした家康にあやかって、自ら進んで浜松城主になったと言われています。

浜松城公園HP

 

江戸時代の3大改革って覚えてる?

徳川吉宗の享保の改革(1716~45)
松平定信の寛政の改革(1787~93)
水野忠邦の天保の改革(1841~43)

このうちの「天保の改革」をおこなった水野忠邦(1794~1851)は、じつは浜松城の主だったのだよ。
ここから江戸幕府の老中に出世して天保の改革をおこなっている。

 

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水野忠邦(ウィキペディア)

 

ところで現在、浜松から出世した人って誰かいたっけ?

政治家の片山さつきさん?

 

 

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2 件のコメント

  • やはり、日本の根は武家文化だと思う。平安期までは中国の律令制をそのまま運用していた傾向が強かったが、西暦1185年に源頼朝が鎌倉幕府を打ち立てて朝廷から権力を奪取した。もしも、これが中国であったらば武力を持つ幕府側は天皇の命を奪っていた可能性が高い。とにもかくにも鎌倉時代以来、日本は大陸中国、そして朝鮮とは決定的に違う道を歩み出したと言える。徳川家康は戦国時代の最終勝者。だが、同時代に生きていた多くの人で徳川が天下をとるなどと思ったのは相当少なかったはず。今川義元や武田信玄、織田信長や豊臣秀吉と家康のそばには齢50後半になるまで常によりパワフルな人物がいた。直接には関わっていないが北条氏康や上杉謙信、毛利元就らも家康よりも上の存在であった。徳川家康のそんな人生を観ると、我々庶民にも未来への希望を持たせてくれる。圧倒的な敵であったのにも関わらず信玄を畏敬し武田滅亡後にはその遺臣を大々的に召し抱える。同じことは北条家の遺臣にもやっている。天地人といわれるように、信長が京都に達し得たのは彼の超越的才能だけではなく濃尾の豊かさという自身の本拠地の基礎条件と生まれた時期のタイミングの良さもが大きく関わっている。ただ、彼は天下布武を実現しかけた段階で図に乗ってしまったきらいがある。それが、あのような最期を招いた。油断だ。22年前に自分自身が桶狭間で討ち取った名将・今川義元と同じ要因。秀吉も小田原征伐後から調子に乗って暴走した。それらを直に目にしていた人物こそが家康その人であった。今川、武田、織田そして豊臣。これらのお家の末路を観たのは家康にとって大いなる教訓になったはず。郷土自慢はいいものだが、昨年訪ねた際に私自身が見た地元・浜松市が作成したJR浜松駅前広場にある「市内観光案内版」上に郷土の英雄・家康の人生に多大な影響を与えた「三方ヶ原古戦場跡」の碑が建っている地点にマークが付いていなかったのはいただけない。そんな姿勢は徳川家康的なものではない。そう深く感じた次第。

  • >これが中国であったらば武力を持つ幕府側は天皇の命を奪っていた可能性が高い。
    そうですね。
    中国だったら、幕府と朝廷(天皇)という二重権力態勢はないでしょう。
    それは承久の乱と靖難の役の違いを見ると分かりやすいです。

    前にそんな記事を書いたので、よかったらご覧ください。
    「日本と中国の歴史の違い。承久の乱と靖難の役・北京と永楽帝」
    https://yukashikisekai.com/?p=5829

    三方ヶ原古戦場跡のマークのことは知りませんでした。
    大事なたたかいですけどね。

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    今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。