はじめの一言
「この章の元となった覚え書きを書いたときには、私の周囲には宮島の魅惑的な美しさが溢れていた。そして、今、ここの本の最後の数行を書いていると、あの優美な日本の桃源郷で過ごした楽しかった日日の思い出が、生き生きと心の中に甦ってきた。(ポンディング 明治時代)」
「日本絶賛語録 小学館」
今回の内容
・欧米に追いついた日本
・欧米を追い越した日本
・欧米に追いついた日本
前回、欧米列強から迫られて開国してからの日本を書いた。
日清・日露戦争で勝利して第一世界大戦後には国際連盟の常任理事国になって、世界の列強と完全に肩を並べるまでになった。
幕末、福沢諭吉は「子どもが奴隷になるかもしれない」と不安に思っていたけど、日本はその約50年後には「世界の一等国」になっている。
欧米に追いついた。
でも、日本は国際連盟という世界の舞台で欧米の先をいくことをおこなっている。
明治時代に生まれた「ラムネ」
イギリスから伝わったレモネードをカタカナ表記したもの。
・欧米を追い越した日本
日本が日清・日露戦争で勝って国際的地位を高めたのは、ヨーロッパがつくった国際ルールに基づいたもの。
明治の日本は、その時代のヨーロッパがつくった帝国主義というルールに従って行動していた。
でも日本は国際連盟で、ヨーロッパの常識を越えたことをしている。
白人中心の国際社会の中で、勇気ある提言をおこなった。
世界の歴史で初めて国際舞台の場で、人種差別撤廃条約を訴えたのである。
フランス人は「フランス革命で自由・平等を勝ち取った」と言います。私が、「日本だって第一次世界大戦の後に、人種差別撤廃条約の提案をしたのよ」と言うと、若い学生たちは皆一様に驚きます。
(意外に日本人だけ知らない日本史 デュランれい子)
日本が人種差別撤廃を主張したということは画期的なことだけど、これを知っている日本人は少ないと思う。
ウィキペディアにも書いてあるんだけどね。
国際会議において人種差別撤廃を明確に主張した国は日本が世界で最初である。
(ウィキペディア)
当時の世界では人種差別という意識はうすかった。
白人を中心に世界がまわっているのはあたり前と思われていた時代。
そんな中で、人種差別撤廃を世界に訴えるのは日本しかなった。
でも、日本の提案は各国の反対にあって否決されてしまう。
人種差別撤廃条約が国際社会で認められたのは、1965年に国際連合で採択されたとき。
下は外務省のHP。
人種差別撤廃条約(あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約)
人種差別撤廃条約は、人権及び基本的自由の平等を確保するため、あらゆる形態の人種差別を撤廃する政策等を、すべての適当な方法により遅滞なくとることなどを主な内容とします。1965年の第20回国連総会において採択され、1969年に発効しました。
もちろんこれは、第一世界大戦後に日本が提案した人種差別撤廃条約とまったく同じ内容ではないだろう。
日本が提案したものも、現在の人権感覚からしたら足りない部分もあったと思う。
けれど、日本の人権意識は当時の世界では先をいっていた。
人権感覚という点では、当時の欧米を「追い抜いた」ともいえるでしょ。
だから、「明治の日本は、欧米のマネをしただけ」なんてもう言えないはず!
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