はじめの一言
*桂離宮を見て
「玄関の間(小さい玄関の間と鑓の間)、これにつづく古書院控えの間(二の間)、広縁のたたづまい、月見台の竹緑、御庭!泣きたくなるほど美しい印象だ。前方には斜めに設けられた舟附場。右方には紅の花をつけた躑躅の植込、-心を和ます親しさである(ブルーノ・タウト 昭和)」
「日本絶賛語録 小学館」
今回の内容
・幕末の日本
・北清事変での日本
・国連の常任理事国(一等国)へ
・幕末の日本
幕末、欧米の列強が日本に近づいてきて、日本人は「日本が植民地にされるかもしれない」という危機感をもっていた。
福沢諭吉は「子どもが奴隷になってしまうかも」という不安を感じている。
自分は何とかして禍いを避けるとしても、行く末の永い子供は可愛そうだ、一命に掛けても外国人の奴隷にはしたくない
(福翁自伝 福沢諭吉)
こんな不安と恐怖をかかえながら、日本は開国して国際社会にデビューした。
でも日本は富国強兵に成功して、憲法と議会をもった近代国家になっている。
これは、アジアでは日本が初めて。
さらに、日清・日露戦争に勝利して日本の国力を世界に認めさせた。
そして国際的地位を高めて、念願だった不平等条約を改正させてもいる。
イギリス軍が紫禁城に入って、この金箔を削っていったという。
・北清事変での日本
日本の国際的な地位を高めたこととして日清・日露戦争の勝利は有名だと思う。
でも、その間の1900年に起きた「北清事変」も見逃せない。
北清事変
1900年の義和団事件に対し、英・米・日・仏・露・独など8ヵ国連合軍が出兵。
義和団が北京の公使館を包囲、清朝政府も義和団に同調して各国に宣戦布告したが、連合軍が鎮圧。
1901年清は北京議定書で謝罪。主力となった日本の軍事力の有用性が列国に評価された。(日本史用語集 山川出版)
義和団のメンバー(ウィキペディア)
このとき、日本軍は「極東の憲兵」と呼ばれた。
北清事変で見せた日本軍の姿は、特にイギリスに評価されて、後の日英同盟に結びつくことになる。
日清戦争ののち、日英両国は共通の利益が極東において結びついているとの認識を得た。とくに英国は、義和団事件で日本が果たした優れた役割をつうじて、日本の実力を認識したのである。
「アメリカの鏡・日本 ヘレン・ミアーズ」
イギリスとの同盟がなかったら、日露戦争での勝利もなかったはず。
清の西太后
義和団と組んだことが大失敗。
北京の王宮から逃げ出すことになった。
中国にマージャンが広まったのは、このときだという説がある。
・国連の常任理事国(一等国)へ
第一世界大戦後には、日本は国際連盟の常任理事国になって欧米列強と完全に肩を並べた。
現在の価値観からしたら、戦争に勝つことによって国際的地位を高めるということに抵抗を感じるかもしれない。
けれど、それが当時の世界の常識でありヨーロッパがつくった「帝国主義」というルールでもあった。
帝国主義
1870~80年代以降の、ヨーロッパ列強の対外膨張と植民地・勢力圏の獲得行動。
(世界史用語集 山川出版)
なんでヨーロッパの国々は、植民地を欲しがったのか?
一般的には、次の説がよくいわれる。
独占資本主義への移行によって、原料・資源の提供地、
商品・投資市場の獲得を目指す対外膨張政策がとられたとする説(世界史用語集 山川出版)
明治日本が世界に誇った「あじあ号」
これは、福沢諭吉が「子どもを外国人の奴隷にはしたくない」と言っていたときからその約50年後のこと。
日清戦争から国際連盟の常任理事国になるまでの明治日本の飛躍を、アメリカ人の歴史家はこう記述している。
日清戦争のあと、欧米はこの生徒の卒業を認定し、一八九九年に「不平等条約」最後の条項が書き改められた。
列強は特権を返上し、日本は高校卒業証書をいただいて大人の仲間入りをした。そして日露戦争で、日本は大学卒業論文を見事に書き終える。
一九一九年、第一次世界大戦後の講和条約を協議するパリ会議は、日本がインターンを無事終えたことを認めた。日本は米英仏伊と並ぶ輝かしき「五大国」、すなわち時の「平和愛好国」の一員となった。日本は優等賞をもらって卒業したのである。
(アメリカの鏡 ヘレン・ミアーズ)
欧米が日本をどう見ていたかよく分かる。
「平和愛好国」の一員となることで、日本は欧米に追いつくことができた。
でも日本は、さらに「その上」をいくことをしている。
歴史上初めて、人種差別撤廃を国際舞台で訴えたのだ。
そのことを次回書きます。
おまけ
20世紀はじめの北京
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