ヨーロッパの政教分離の歴史:フランスでのイスラム教徒のブルカ禁止

 

はじめの一言

「日本の子供は本当に子供らしいことがすぐにわかる。彼らと親しくなると、とても魅力的で、長所ばかりで欠点がほとんどないのに気づく
(パーマー 明治時代)」

「日本絶賛語録 小学館」

 

戦国時代に織田信長がした「比叡山の焼き討ち」は、じつは「日本人への贈り物」だった。

そんなことを書いた。

織田信長が日本人に与えてくれた最大の贈物は、比叡山焼討ちや長島、越前の一向宗徒との対決や石山本願寺攻めに示されたような、狂信の徒の皆殺しである

(男の肖像 塩野七生)

その理由は、このことで日本での政教分離が進んだから。
信長が「比叡山焼討ちや長島、越前の一向宗徒との対決」ということが残酷であることはたしか。
だから「贈り物」という表現はどうかと思うけど、くわしくは前回の記事を読んでほしい。

今回の記事では、ヨーロッパでの「政教分離」について書いていきたい。

 

今回の内容

・フランスでの「ブルカ禁止」
・ヨーロッパでの政教分離
・フランスでの政教分離

 

・フランスでの「ブルカ禁止」

2011年フランスで、イスラーム教徒の女性が公共の場所でブルカ(写真下)を着ることが禁止された。

 

ブルカ(ウィキペディア)

 

その3年後の2014年、「ニューズウィーク」にこんな記事がある。

ブルカ禁止を支持する意外な判決

ムスリム女性の顔や全身を覆うブルカを公共の場で着用することを、フランスが全面的に禁じたのは11年。
「女性隷属の象徴」であるブルカ件を禁じるのは当然で、フランスの政教分離の伝統にのっとった判断だとする賛成派と、ブルカ件着用は女性の自発的な選択であり、着用禁止は信教の自由の侵害だと訴える反対派の論争は今も続いている。

この記事の「フランスの政教分離の伝統」という文を読むと、タイ旅行で会ったフランス人の顔が頭にうかぶ。

その人は40代の女性から、フランスの学校では女子生徒がイスラーム教徒の服を着ることが禁止されていると聞いた。
先ほどのブルカ禁止と同じものだろう。

その理由を聞いたところ、彼女はこんなことを言う。

「それがフランス人の考え方だから。フランスの歴史では、宗教が政治にかかわることで大きな問題が起きたりたくさんの人が殺されてりしてきた。だから、宗教を教育や政治と切り離すことがフランスではとても大切なの」

ニューズウィークの記事を読んだとき、このときの話を思いだした。

 

目だけ出ている服は、ニカーブと呼ばれている

 

・ヨーロッパでの政教分離

高校で世界史を学ぶと、この「政教分離」についても学ぶはず。

政教分離はヨーロッパで生まれた考え方で、日本人には分かりにくいと思う。

そのひとつの考え方として、「個人の信仰の自由が認められているか?」ということがある。
つまり、「自分が信じる宗教を自分で決めることができるか?」ということ。

政教分離

国家と宗教とを分離させる憲法上の原則。国家と宗教とが未分化で明確に区別されていなかったり、両者が密接に結合している場合、個人の信教の自由は認められない。
その意味で、政教分離と信教の自由は表裏一体の関係にある。

(知恵蔵2015の解説)

中世のヨーロッパでは、キリスト教にカトリックとプロテスタントの2つの宗派(教派)があった。

でも、一般の人たちは信仰の自由がない。
自分が信じたい宗派を信仰することができなかった。
それが原因となって、争いや戦争が起きてたくさんの血が流れている。

たとえばドイツの三十年戦争がある。

三十年戦争

1616~48ドイツを戦場とし、旧教を強制されたベーメンの反乱から始まり、神聖ローマ帝国全体の新旧両派諸侯の戦いへと拡大した。
スペインが旧教徒側を援助し、デンマークやスウェーデンが新教側にたって参戦するなど国際戦争に発展し、旧教国フランスが新教徒側にたって参戦した

(世界史用語集 山川出版)

他にも、パリではサン・バルテミの虐殺という悲惨な出来事も起きていた。

 

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ベトナムの教会
「マリア像」があるから、プロテクトではなくてカトリックの教会ですね。

 

こうした宗教をめぐる争いに、ヨーロッパ人は疲れはててしまう。
そんな疲労感を背景に、宗教と政治を分けようという「政教分離」の考えがヨーロッパで広まっていく。

その具体的なあらわれが、ウエストファリア条約とその後のヨーロッパの体制になる。

ヨーロッパで政教分離原則が確立したのは、ヨーロッパ最後の宗教戦争と呼ばれる30年戦争を終結させたウェストファリア条約(1648年)であるとされます。

イエスは言われた。「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」(マルコ12章17節)

 

ウェストファリア条約というのはこんな内容。

ウェストファリア条約

1648年ドイツのウェストファリア(ドイツ語名はヴェストファーレン)で,三十年戦争終結のためにドイツとフランス・スウェーデンとの間に結ばれた条約。
ドイツでのカルバン派承認,フランス・スウェーデンの領土拡大,スイス・オランダの独立が承認された。また,領邦国家の主権が確立し,ドイツ分裂を決定的にした。

(大辞林 第三版の解説)

このウェストファリア条約によって、スイスとオランダの独立が国際的に承認された。
これによって、両国が完全な独立国となって現在にいたっている。

この条約は1648年だから、日本だと鎖国が始まるころ(1641年)になる。

 

 

・フランスでの政教分離

この記事の始めに、フランスでの政教分離についてふれた。

これがフランスで伝統的な考え方になった理由のひとつに、ドレフュス事件があると思う。
この政治事件によって、当時のフランスは大騒ぎになる。

ドレフュス事件

フランス第三共和政を揺がした政治危機。 1894~1906年社会の根底に横たわる社会的・政治的緊張を露呈し,共和国の存続そのものを危険にさらした事件として知られる。
1894年ユダヤ系の陸軍大尉 A.ドレフュスがドイツに情報を売ったとして終身流刑に処せられた。

(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説)

 

この事件をうけて、フランスで「政教分離法」という法律ができた。
これは日露戦争があった1905年のこと。

政教分離法

カトリック教会の政治介入を排除した法律。ドレフュス事件の経験から、教会を最大の脅威と認識した急進社会党の強い要求で成立した

(世界史用語集 山川出版)

 

ということで今回の記事は、ヨーロッパの政教分離について書いてきた。
でも政教分離の歴史はこれだけじゃないから、後は各自で調べてください。

一応、ウィキペディアのページをはっておきます。

政教分離原則

 

おまけ

ドレフュス事件はとても大きな事件だっただけに、与えた影響も広範囲にわたる。

キリスト教世界における反ユダヤ主義の根強さを認識したヘルツルによる、シオニズム運動のきっかけとなった

(世界史用語集 山川出版)

つまり、このドレフュス事件がイスラエルを建国しようとする動き(シオニズム運動)につながった、ということ。

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。