「無理・不可能」の代名詞、インパール作戦とかいう絶望

 

会社のなかで絶対に達成できないような無理筋な命令を上司がだした場合、日本人の部下は一般的に「インパール作戦かよ」とグチをこぼす(当社調べ)。

インパールとは太平洋戦争当時、イギリス領インドにあった都市の名前。
1944年、日本軍はこのインパールをイギリスから奪う作戦を立てて実行した。
でもこの作戦はあまりにデタラメだったため、おびただしいほどの日本兵が命を落とす歴史的大惨敗に終わった。
そのため日本では「史上最悪の作戦」として知られ、不可能な命令や計画をあらわす一般的な言葉にもなる。
くわしいことはここをどうぞ。

インパール作戦

 

「腹が減っては戦はできぬ」で、たたかいには食糧の確保が欠かせない。
でも、牟田口廉也(むたぐちれんや)中将はそれを軽視し、多くの兵力をインパール作戦に投入して、3万人の日本兵をそこで死なせた。
そこで現在の日本のサラリーマン社会では、無茶苦茶な命令をだす上司を部下はよく、「あの牟田口め」と無駄口をたたくといわれている(当社調べ)。

インパールは北海道のあたりにある。

 

インパール作戦にはインドの英雄チャンドラボース率いるインド国民軍も参加している。
当時インドはイギリスの植民地支配下にあって、ボースはイギリス軍と戦ってインドを解放しようとした。
インドの国際都市コルカタ(旧カルカッタ)の空港はこの英雄の名をとって、「ネータージー・スバース・チャンドラ・ボース国際空港」と名付けられた。

 

コルカタの空港にあったボースの絵
この服と靴は日本軍が支給したものだろう。

 

いまでもインパールの地獄を生き抜いた人がいて、この作戦や戦争の愚かさ、平和の尊さを伝えている。

京都新聞の記事(2019年06月05日)

「ほとんどが飢えや病気で亡くなった」 97歳インパール語る

こう語る今井さんはインパール北のコヒマを制圧する部隊にいた。
今井さんらの部隊は食糧として牛を連れていたという。
牛と一緒に進軍したらこうなった。

途中の大河やインド国境の2千~3千メートル級のアラカン山脈を越えなければならず、牛は山道から落ちるなどして全滅。今井さんは20日分の重い米を持って徒歩でコヒマに到着したという。

 

現地の状況を把握しないで、机上の空論を現実におこなうとこうなる。
これがいわゆる「ジンギスカン作戦」。
くわしいことはこの記事をどうぞ。

ジンギスカン作戦で飢餓地獄。牟田口廉也とインパール作戦。

 

食べ物がなかった日本軍兵士は雑草やキノコなど、消化できそうなものは何でもつかんで口に入れていた。
現地での本当の敵はイギリス軍ではなくて病気や餓死。
イギリス軍との戦闘なんてとても無理な状況で師団長は撤退をきめた。

今井さんがいまの日本人に訴えたかったことはこれだろう。

雨期に入ってマラリアや赤痢で次々と戦友が動けなくなり、「迷惑がかかると、手りゅう弾で自殺した」と証言する。撤退路は「白骨街道」となり、遺体に野の花を手向けて冥福を祈るのが精いっぱいだった。今井さんは「ほとんどが飢えや病気で亡くなった。戦争を絶対にしてはだめだ」と力を込める。

 

この記事にネットの反応は?

・無能な上司ほど怖いものはない
・制空権制海権どころか兵站も確保せず兵士をやみくもに送り込む無能集団
・どれだけ馬鹿、アホとか悪口を言っても反論が出ない人物
それが牟田口
・南国へは兵は奴隷船並に積み込まれて行ったらしい

最後の「奴隷船」というのは「バシー海峡の悲劇」のことだろう。
日本兵を送るこの輸送作戦も本当にでたらめで、日本軍は制海権を確保しない状態でこれをおこなった。
だから輸送船はアメリカ軍の潜水艦の魚雷によって簡単に沈められてしまう。
できる限り多くの日本兵を運ぼうとした輸送船は、ある意味でアウシュヴィッツ収容所を超えていた。

ナチの収容所の中で最悪といわれたラヴェンスブリュック収容所の中の、そのまた最悪といわれた狂人房のスペースと同じなのである。おそらくこれは、これ以上つめこんだら人間が死んでしまう、ぎりぎりの限界である。

「日本はなぜ敗れるのか 敗因21カ条 (山本七平)」

これといいインパール作戦といい、「とにかく行け!」の犠牲になった日本人は本当に多い。

くわしいことはこの記事をどうぞ。

バシー海峡の日本人②アウシュヴィッツを越える太平洋戦争の悲劇

 

インパール作戦

 

戦地となったビルマ(いまのミャンマー)にはいまも多くの日本人の魂がある。

 

ではこの当時、ミャンマーに現れた日本兵に現地の住民は何を思って、何をしたのか?
ミャンマー旅行でその話をきいたから、ちかいうちに書きます。
でも、このバオ族のおばあさんの話を先に紹介しようと思う。

 

 

このおばあさんが子供のころに、日本軍がミャンマーにやって来た(インパール作戦のためだろう)。
その当時は「日本人が来るぞ!」と誰かが叫ぶと、村人はみんな急いでジャングルの奥へ逃げたという。
でもそれはいつも「オオカミ少年」で、実際に日本兵が村にやって来たことはない。
ただ、「日本=恐怖」という記憶は刻まれた。

それから約70年が過ぎて、初めて目にした日本人がボク。
このおばあさんは日本人に感謝の気持ちを伝えたいと言う。
戦争が終わった数十年後、今度は本当に日本人がこの村の近くにやって来て学校を建てた。
自分は教育を受けていないから読み書きができないけど、この学校のおかげで、孫は教育を受けることができた。
それで日本人にはずっと、「ありがとう」を伝えたかった。
ボクはこの学校にまったく関わっていないけど、こういうミャンマー人の気持ちはたくさんの日本人に知ってほしいと思う。

 

インパール作戦のとき、日本兵が見た風景もこれと似たようなものだったろう。

 

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インドで尊敬されるチャンドラ・ボースと日本軍のインパール作戦

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2 件のコメント

  • >無理筋な命令を上司がだした場合、日本人の部下は一般的に「インパール作戦かよ」とグチをこぼす(当社調べ)。
    >インパールは北海道のあたりにある。(この地図で)

    うーん、面白い表現だとは思いますけど・・・。今の若い人達には通じないでしょうね。
    『「インパール」って「威張る」をひねった言い方にした表現かな?』
    『へーぇ、インパールって北海道の近くにあるんだ。ロシアと北朝鮮の間くらいかな?』
    そんなところがオチだと思う。

    あんまり凝った頓智を効かせた表現を使っても、理解しづらくなるばかりで、かえって読者が離れていくのでは?使うなら、サゲまでちゃんと書きましょう。

  • コメントありがとうございます。
    いま読者層や書き方についていろいろと考えていまして、試行錯誤の最中です。
    funとinterestingの2つの面白さを両立させたいと思っているのですが、なかなかむずかしいです。
    中学生でも読めるような文章がいいと思っているのですが。

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    今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。