「もはや戦後ではない」
1956年にそんな言葉が流行語となって、日本はいま二度目のオリンピック開催を目前にひかえている。
でも、まだ完全には終わっていなかった。
NHK NEWS WEBの記事(2019年6月26日)
旧日本軍兵士の遺骨収集再開へ 日本とインドネシアが協定署名
太平洋戦争のき、約8万人もの日本軍兵士らがインドネシアで亡くなり、その半数ほどがいまも現地で眠っていると言われる。
そうした人の魂を帰国させるため、日本はインドネシアの協力を得て遺骨収集をはじめるという。
といってもタダではない。
「この地域は開発が遅れていて、地元からは遺骨収集に協力する見返りとして日本から経済的な援助を求める意見もある」ということだから、これからそちらの話し合いもおこなわれるはずだ。
でも戦後を終わらせるためにも、やらないといけないことがある。
この戦争のとき、インドネシアはオランダによる植民地支配を受けていた。
これはそのときに使われていた牢獄で、囚人たちは鉄球を足につけられていた。
そんなインドネシアを1942年に日本軍が制圧する。
日本はオランダ軍を破り、現地のジャワ人の預言者によれば、解放のためにやってきた英雄としてインドネシア人に歓迎された。
ウィキペディアにはこう書いてあるけど、インドネシアの歴史教科書に書かれているのは「ロウムシャ」という単語。
ロウムシャ(労務者)はインドネシア語になっていて、重労働をさせられた現地の人をさす。
ただ、日本軍とオランダ軍がたたかい、日本が勝利したことでインドネシアは独立を回復することができたという面はある。
さらに日本軍は現地の若者に軍事訓練を受けさせて、「PETA(ペタ:郷土防衛義勇軍)」と呼ばれる軍事組織をつくった。
終戦時には、66大団、約3万6千人の規模となっていた。このなかには、蘭印軍(オランダ東インド軍)軍曹の前歴を隠したまま入隊して小団長に任命されたスハルト(後のインドネシア第2代大統領)も居た。
インドネシアの高校の歴史教科書にはペタについてこう書いてある。
この若者たちがのちにインドネシア民族と国の独立闘争の大黒柱となった。そもそもこのペタの結成は、日本が太平洋戦争において連合国との戦いに必要な戦力を満たすためであった。
しかし、インドネシア人民にとってもペタは、武力による戦いを通じて独立を勝ち取るために大きな効用があることがわかった。
「インドネシアの歴史 明石書店」
日本の敗戦によって太平洋戦争は終わり、ペタは解散された。
すると再びオランダがインドネシアにやって来た。
それを迎え撃ったのが日本軍に鍛えられたペタの兵士たちで、独立をかけたこの戦いで重要な役割を果たす。
このとき銃を持って、インドネシア人と一緒に戦った元日本軍の兵士もいた。
オランダ軍は、抵抗するインドネシア人を、圧倒的な武力で屈伏させようとしました。
しかし、日本軍から譲り受けたり奪ったりした武器をもったペタは、市民の先頭に立って、勇敢に戦いました。日本軍籍を離れた日本兵もペタととも戦いました。
「教科書が教えない東南アジア 扶桑社」
インドネシア独立戦争に参加した日本人は国の英雄として、「カリバタ英雄墓地」に埋葬された。
2015年4月22日アジア・アフリカ会議(バンドン会議)60周年では、開会式を終えた安倍首相は墓地を訪問しインドネシア独立戦争の英雄である日本人(衛藤七男)の墓前にも献花した。
この待遇はインドネシアで最高の栄誉とされている。
これと違ってまだ誰にも気づかれずに眠っている日本人がいたら、なんとか日本に連れて帰ってほしいと思う。
さて、いまのインドネシア人はこの時代のことをどれだけ知っているのか?
少しまえに3人のインドネシア人に質問したら、全員が「ロウムシャ」を知っていたけど、「ペタ」は知らなかった。
「ペタって、PETA(地図)のことですか?」と言う。
ボクが説明すると、「そう言えば学校で習ったと思います」と言う。
でもいまのインドネシアは親日国で、日本を好きな人は本当に多い。
インドネシアの人たちは過去を現在に引きずらないのだ。
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