【歴史を直視せよ】終戦直後、日本人と韓国人がしたこと

 

国家間の約束も国際法も守らない。
そんな韓国の信用は地に落ちて地中に埋まり、日韓の信頼関係はなくなった。
これに安全保障上の理由がくわわり、日本政府は韓国をこれまでの優遇をやめて「グループA(ホワイト国)」から除外した。

そんな日本に韓国のムン大統領は「歴史カード」で対抗。

ハンギョレ新聞の記事(2019-08-30)

日本は過去の歴史を直視することから出発し、世界と協力し、未来に向けて進まなければならない」とアドバイスした。(中略)「過去を記憶し、省察することに終わりはない」とし、

文大統領「日本は正直であるべき…度重なる前言翻しで報復を合理化」

 

韓国はどんな状況になっても、政権が変わってもこんなことを言う。
では、「過去の歴史を直視せよ」という助言をもらったことだし、早速そうするとしよう。
日本がアメリカに降伏した直後、日本人と韓国人(朝鮮人)との間に何があったのか。
現在につながる日韓関係の“原点”を確認しようと思う。

 

さて下の写真は太平洋戦争末期、フィリピンでおこなわれた日本軍と米軍との戦いを写したもの。

くわしいことはここをクリック。

残存兵は陣地に篭って最後の抵抗をしたが、日本軍各師団の兵力は約20%ほどにまで減少していた。食糧なども不足し、飢餓や病気に倒れる者が続出する惨状となって終戦を迎える。

フィリピンの戦い (1944-1945年)

 

アメリカへの降伏を知ったあと、日本軍兵士は投降して米軍の捕虜となった。
そんな米軍捕虜のひとりに小松真一という日本人がいて、彼は収容所での生活をメモに記録していた。(虜人日記:りょじんにっき)

日本の捕虜にとって収容所は、思想的真空地帯だった。軍国主義は瓦解し、しかし民主主義はまだ届いていない。この特殊な状況下で日本人の様々な特性が浮かび上がってくる。

虜人日記

小松氏が描いたイラスト

 

当時の日本兵の中には朝鮮人(韓国人)や台湾人もいて、小松氏の収容所では日本人・朝鮮人・台湾人が別々の区画に収容されていた。
こうした朝鮮人や台湾人のなかには日本軍の将校に恨みをもつ人がたくさんいて、同じ収容所にいることを幸いに復讐をはじめる者がでてきた。
*以下の内容は小松真一氏の「虜人日記」のもの

彼等特有の団結力を利用してこれ等悪日本人のリストを作り、片端から暴力による復讐が行われだした。

「日本はなぜ敗れるのか 敗因21ヵ条  山本 七平 (角川oneテーマ21) 」

 

殴る蹴るのリンチをうけた日本人側もしだいに怒りが高まり、「目には目を、暴力には暴力を」と朝鮮人や台湾人に殴り込みをかけそうな雰囲気になる。
でもこんな考え方が日本人の中で支配的になり、仕返しは消えた。

日本人は今猛省する時だ。暴力は悪いが暴力を受ける者にはそれ相応の理由もある事だから、彼等の満足の行く様甘受すべきだ。

 

でも、この対象となったのはリストに挙げられた「悪日本人」で、朝鮮人や台湾人の世話をよくした日本人には「缶詰、タバコ、その他沢山の贈物が来た」という。
このときの朝鮮人や台湾人の認識は、「日本人=悪」ではなくて玉石混交。
良い人もいたし悪いヤツもいた。
優先されたのは個人的な関係だった。

しだいに日本人へのリンチもなくなり、元は同じ日本軍兵士だったせいか、朝鮮人が母国に戻るときには、今後の良い関係を願って「お別れ会」が開かれた。

今までの交友が無駄になるというので、細野中佐の肝入りで朝鮮人代表を招い て、日本人のおかした罪を謝り彼等と気分よく別れようという事になった。

 

このとき日本人は自分たちの非を認めて謝罪し、朝鮮人の側はそれを受け入れて日本人へ別れの言葉を述べる。
すごく小さいことだけど、これも日韓関係の「原点」のひとつ。

日本人に対する当時の朝鮮人や台湾人の見方を小松氏はこう書く。

朝鮮人、台湾人の共通の不平は彼等に対する差別待遇であり、共通に感謝された事は日本の教育者達だった。彼等は国なき民から救われた喜びだけは持っていた。

 

当時の韓国人は差別待遇には不平を持ち、教育には感謝して、国なき民から救われた喜びは持っていた。
これを現在の常識から判断してはいけない。
そんなことをすると、絶対に歴史は分からなくなるから。

現在の韓国人の価値観からするとこんな言葉は認められないし、「売国奴」「親日派」とレッテルを貼られるかもしれない。
特に「国なき民から救われた喜びだけは持っていた」という当時の韓国人の気持ちを、現代の韓国人は徹底的に無視・排除すると思う。
でも、現代の価値観を優先してはいけないというのは日本人も同じ。
「日本人のおかした罪を謝り」という記述を気に食わないと思う人がいても、素直に受け入れる必要がある。

この「虜人日記」は歴史の一次資料で、ここに書かれた内容は信頼できる。
現在の日韓関係の影響を一切受けていないし、小松氏には政治的な利害関係も損得もない。
当たり前だけど、安倍政権にもムン政権にも読者にも配慮することなく、小松氏は戦争捕虜として客観的な事実を書ける立場にいた。
小松氏の記述には、「日本人の暴力性がつくづく嫌になった」「日本人の正義感は腐ってしまったのだ」と日本人を非難するものもある。
悪いことは悪いと認めて、冷静に書かれているのがこの資料だ。

 

さて、話をはじめに戻そう。

「過去の歴史を直視することから出発し」
「過去を記憶し、省察することに終わりはない」
「未来に向けて進まなければならない」

韓国ムン大統領の言葉には共感しかない。
でも、その場合の過去や歴史は正確なものでないと意味がない。
それを知るには、現代の日韓関係とはまったく関係のない記録を調べることが一番いい。

戦争や日本統治が終わったあと、日本人や韓国人はどんなことを考えていたか?
未来に向けて出発するなら、個人的な考えは横に置いて、当時の資料を直視することが大事だ。

「朝鮮人、台湾人の共通の不平は彼等に対する差別待遇であり、共通に感謝された事は日本の教育者達だった。彼等は国なき民から救われた喜びだけは持っていた。」

ムン大統領や韓国国民は直視できるだろうか。

 

 

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2 件のコメント

  • 記事に挙げられているような終戦時の話を見聞きすると、当時は朝鮮人も日本国民だったのだなと実感します。
    同じ日本国民なのに差別されれば怒るのも当然ですし、復讐をしたいという気持ちも沸き上がるでしょう。
    実際、当時は日本人同士でも、兵の恨みを買っていた将校ばかりが引揚船から海に転落したり、収容所でリンチを受けたりという事がありました。
    また補給を絶たれて守備隊の3分の2が餓死、病死するという悲惨な状況に置かれた島であっても、行き先が違う引揚船に乗る日本人と朝鮮人が握手を交わして別れることもあったそうです。
    第三国人や李承晩ラインだけではなく、こういう話もしっかりと伝えるべきでしょう。
    日韓関係が長い間、ぎこちないながらも致命的なほど険悪化しなかったのは、当時を実際に知る人々が双方にいて、パイプ役となっていたからです。
    そういう人々が減り、韓国では極端な愛国反日教育を受けた世代が社会の中心となると、反日は政治的な手段ではなく、宗教的な正義になってしまった。
    日本側でもそれを見て嫌韓が広まり、主にネット上で「朝鮮人の悪行」だけが強調される風潮を生み出し、今では日本人の性質として大声で主張しないだけで、嫌韓や韓国蔑視は当たり前になってしまいました。
    「円柱は横から見れば四角、上から見れば丸に見える」等と言いますが、当時の出来事は一点からだけでなく様々な視点から見ないと理解できないと思います。
    韓国側は態度を改めるべきですが、日本側も同様に、ただ「朝鮮人の悪行」を非難するだけでなく、歴史の歪曲や捏造を繰り返す韓国に事実をもって対抗するためにも、あらゆる視点から、良い側面も悪い側面もしっかりと伝えていく必要があります。
    そしてそれが、たとえ今は無理でも将来、日韓が対等の立場で友好関係を築く礎になって欲しいと思います。

    最後に、非常な長文で失礼致しました。

  • 当時の記録を読んでいると、戦前戦中の韓国人はいまの韓国人と別の価値観を持っているとよく思います。
    日本統治のいいこと・悪いこと両方を認めています。
    日本人も「韓国に悪いことをした」という認識を持っている人が多いです。
    でもいま、その当事者はほとんどいません。
    直接関係のない人が「加害者と被害者の関係」と強調して、それにもとづいた歴史を叫んでいる状況です。
    これでは対等な友人関係は築けませんよ。

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    今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。