「生きるべきか死ぬべきか。それが問題だ」というのは大した問題ではない。
けっきょくは個人のことだから。
本当の問題は、自分が他人の生死を判断することだ。
「生かすべきか殺すべきか」というのは本当に難しい。
たとえば自分がトロッコに乗って進んでいたとする。
その前方の線路は左右二手に分かれていて、一方には5人、もう一方には1人が線路に縛られた状態で横たわっている。
選択肢は2つだ。
そのまま進めば5人をひき殺すことになる。レバーを引いて進路を変更すれば1人が犠牲になる。
もちろんブレーキはきかない。
さあ、あなたはどちらを選ぶ?
という問題を小学校と中学校の授業で児童・生徒にやらせたところ、あとで大問題になった。
くわしいことは毎日新聞の記事をどうぞ。(2019年09月29日
授業は、選択に困ったり、不安を感じたりした場合に、周りに助けを求めることの大切さを知ってもらうのが狙いで、トロッコ問題で回答は求めなかったという。
死ぬのは5人か、1人か…授業で「トロッコ問題」 岩国の小中学校が保護者に謝罪
中学生はともかく、小学生にこれを考えさせるのは適切ではない。
とボクは思うのだけど、ネットでは特に問題視していない。
・これダメなんかw
・保護者の全員が文句言ったわけではないやろ
賛否両論なんじゃないの
・そんなんじゃコナンも見れねーよ
・二択問題で周りに助けを求める大切さといわれても
・みんな助かる選択肢を考えたら神
しょせんは他人事か。
さて、1人を犠牲にして5人を助けるか?それともその逆を選ぶか?
「そんなことできるわけないっ!どっちも必ず助けるっ」と主人公が言うと、本当に全員助かってしまうのはアニメやマンガの話。
現実はそんなに甘くない。
たとえば「救命ボートの倫理」だ。
船が沈没して、60人しか乗れない救命ボートに50人が乗っていたとする。
周囲には海に投げ出された100人が助けを求めている。
この場合の選択肢は次の4つ。
・全員を乗せて、ボートは沈没する。
・10人だけを乗せる。
・ボートにいる人を説得して何人かは降りてもらって、そのぶん海に投げ出された人を救う。
・60人は限界値だから、安全を考えてもう乗せない。(=海にいる人は全員見殺し)
これはギャレット・ハーディンという人物が1974年に提案した資源分配で使ったたとえ話。
くわしいことはここをどうぞ。
救命ボートに乗っている人を先進国、海に投げ出されている人を途上国の比喩とし、途上国を見捨てて安全確保を優先することを良しとした。環境問題の解決のためには南北問題を見過ごすことは已むを得ないとした。
こういう議論は欧米でよくある。
「バルーン・ディベート」も有名だ。
事故で気球の風船が縮んでいく。そこに乗っている人を可能な限りたくさん助けるために、誰を外に放り投げるか?
そんな身もふたもない議論だ。
The audience is invited to imagine that the speakers are flying in a hot-air balloon which is sinking and that someone must be thrown out if everyone is not to die.
自分が放り出されないためには、相手を説得しないといけない。
こういう発想は欧米的だと思う。
救命ボートの倫理もバルーン・ディベートも日本人にはなじみが薄い。
これは欧米的な価値観によるもので、日本人のものではないから。
でも、「トリアージ」については誰もが考えないといけない。
事故や災害時など人手や時間が限られた状態で、なるべく多くの人を助けるには、なるべく早くそれ以外の人を判断する必要がある。
「まだ息はあるけど、もう治療しても助からない」という人には何もしないで、可能性のある人を選んで集中的に治療をおこなうのだ。
ことしの5月、大津市でそんなことがあった。
いつか自分や身内や“判断される”という覚悟はどこかで持っていたほうがいい。
そうでないと、大声で怒鳴る人間や医師の胸ぐらをつかむ人間の意見が優先されて、助かる命が救えないかもしれない。
話に聞いただけだけど、阪神淡路大震災のときにそんなことがあったらしい。
高校生や大学生なら、「多くのために、少ない犠牲を覚悟する」という議論をしてもいい。
でも、やっぱりこういう話は日本人の情緒には合わないと思う。
日本人の場合、「全員助けてやるっ」というアニメ的展開をどこかで期待してしまうのでは?
「悟空ー!!!!はやくきてくれーっ!!!!」みたいな。
こちらの記事もいかがですか?
過去のトリアージ記事読ませていただきました。ネットの方々含め、極めて日本人的な意見が多いですね。
トリアージは、秋葉原無差別殺傷など大規模事件でなくとも、日常に行われています。
夜間、山岳道路で交通事故、2名の赤、救急車1台、どうする?救急車2台出た、とする。
30km以内に田舎病院一つ、医師、看護師各1名、患者受け入れは1名のみ、どうする?
日中通常診療の院内でも同様です。トリアージは優先順位の問題ですが、医療資源と患者数の問題でもあります。
90代女性の脱水は論外です。超高齢者1人を集中治療することで、5人の患者診察が不可能になります。提訴された1人を治療するのは可能だったでしょうが、それを繰り返せば、10人の超高齢者治療のために、50人の診察が出来ず、その中には手遅れになる人もいたはずです。
学校で有望学生1人をプッシュして有名校に合格させる。
ラーメン屋さん、麺玉残り1で、5人の客がきたから説明して店終い。
そういうことです。割り切りは難しいけど。
これは別の記事で書くつもりですけど、日本人は「みんな平等」の考え方が強すぎるため、かえって不平等があらわれることがあります。
昭和の時代に、ある学校教員が「自分は人間に点数をつけられない」とクラスの児童(生徒かも)全員に「3」の成績をつけました。
これには賛否わかれました。
平成でも、徒競走でみんなでつをつないで同時にゴールするという学校があらわれて話題になりました。
こういう平等が好きな人だと、トリアージや救命ボートの倫理の議論は嫌がるでしょうね。
「みんな平等」という言い方をすれば聞こえはいいですが、その考え方が日本では度々、「出る杭は打たれる」「目立つ奴は仲間外れ」「他人の足を引っ張る」「KYな奴」「変わった奴はいじめで潰す」といった悪習慣につながっていますからねぇ。「全員を平等に扱い、全員に同質性を求める」ことは、必ずしもよい考え方ではありません。
そういった、行き過ぎた平等思想の負の面を、学校教育等でもっと教えるべきだと思いますね。最近の「ダイバーシティ思想」なんてまさにその考え方。日本は、もっと個々人の違いを認め、努力して得た成果の大小は尊重してしかるべきだ。
学校教員が生徒の成績をつけないとか、徒競走で手をつないで同時にゴールさせるとか、そんなのは「平等」ではなくて、全ての生徒を均等に押さえつけようとする「横暴な管理欲の発露」であるとしか思えません。
「みんなに3をつける」という全員平等の発想には、当時外国人が「その発想はごう慢だ」と批判していました。
たぶんその人はキリスト教徒で「それは、神の前では誰もが同じ存在というのと同じだ」と言っていました。
自分の前ではみんな3、というのは自分を神のような存在にしたという見方もできます。
教師のエゴですね。