現在のインド人が考えるイギリスの植民地統治、その闇と光

 

このまえ日本に住むインド人とバングラデシュ人とカレーを食べに行った。

「日本人は清潔好きですね。どのレストランでもこんなおしぼりがある」と感心するインド人に、「そのせいか、インドを旅行する日本人はよくお腹を壊します」なんて答えたりしながら話と箸(というか手)は進む。
そのうちイギリスによるインド植民地支配の話題となった。
まあボクがそれをきいたのだけど。
ということで今回は、このとき彼らから聞いたイギリス支配の功罪、光と闇について書いていこうと思う。

ちなみにバングラデシュはインドから独立した国で、もともとはインドの一部。
だからこのインド人がバングラデシュ人と会ったとき、彼をインド人と思ったという。
インド人とバングラデシュ人を見た目で判断するのは不可能らしい。

ボクも40を越えたあたりから、AKBのメンバーがすべて同じ顔に見えてきた。それと同じだ。(いやちがう)

 

 

さっき「光と闇なんて」なんて書いたけど、まずはイギリス支配のダークサイドから書いてしまう。
その闇とはイギリスによる「分割統治」。
植民地支配を効率的にするため、イギリスはインド人を団結させないようにいろんな亀裂をつくって、互いに対立するように仕向けた。

少数が多数を支配するときはこんな分断が有効だ。
いい例えではないけど、学校で教室の全生徒が一致団結して反抗してくると、先生としてはクラス運営ができなくなる。
だから女子だけにはテストで+10点をつけるなどして、男女で差をつけて互いに敵対させると、まとまった反発がなくなるから運営はしやすくなる。

大ざっぱに言えば分割統治もそんなもので、インドにはカーストや藩王国などさまざまな分断要素があったから、イギリスはここに亀裂を入れて人々や藩王国の対立をあおった。
特に警戒していたのがヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の協力関係。
この両者が結びつくと手の付けられない事態となってしまう。

その代表例が1857年におきたインド大反乱で、このときムガル皇帝の名のもとに、宗教や身分の違いを越えて多くのインド人が終結して力を合わせてイギリスとたたかった。

バハードゥル・シャー2世は彼らに身をゆだねるほかなく、その夜に「ヒンドゥスターンの皇帝」としてイギリスに宣戦布告する言文を発した。
この反乱を機に、旧王侯、旧地主、農民、都市住民ら反英勢力が、宗教・階級の枠を越えて一斉に蜂起した。

インド大反乱

 

上はインド大反乱の様子で、下は激怒した英軍による見せしめの処刑。
大砲の先に反乱に参加したインド人をくくりつけて、そのまま砲弾を発射させて体を吹き飛ばした。

 

 

日本ではこれを「インド大反乱」と呼ぶことが一般的だけど、インド人とバングラデシュ人は「(第一次)独立戦争」と呼んでいた。
反乱とは支配する側の表現で、される側からしたら正当な抵抗運動になる。

この一件でイギリスはヒンドゥー教徒とイスラーム教徒が共闘することの恐ろしさが骨身にしみてわり、両者の引き離しにかかった。
インドの高校用の歴史教科書として執筆された本にはこう書いてある。

大反乱の直後、彼らはムスリムを抑圧し、彼らの土地と財産を大々的に没収し、同時にヒンドゥーを自分たちのお気に入りだ、と宣言した。一八七〇年以降にはこの政策は逆転し、上流・中流階級のムスリムを民族運動に敵対させる試みがなされた。

「近代インドの歴史 (ビパン・チャンドラ) 山川出版社」

 

イギリスはイスラーム教徒(ムスリム)に就職面で優遇をあたえ、高い地位と給料の職業にヒンドゥー教徒より簡単に就けるようにする。
このときは産業や商業もまだまだ未発達で、教育を受けた人にとって公務員というのはとてもおいしい仕事だった。
イスラーム教徒というだけで競争が有利になり、彼らもそれを当然の制度と考えていたから、ヒンドゥー教徒の敵意や対立は深まるばかり。

 

分割統治はイギリスの鉄板政策で、ビルマ(いまのミャンマー)では仏教徒とイスラーム教徒が争わせるように仕向けた。
現在のロヒンギャをめぐる問題の原因のひとつがこれだ。

ロヒンギャ問題。日本人「イギリスの植民地支配の責任は?」

逆に言えばイギリスの支配が“成功した”理由は、支配地域での分断が悪魔的にうまかったから。

バングラデシュがインドから独立した原因も「ベンガル分割令」によって、イスラーム教徒の多い東ベンガルとヒンドゥー教徒の多い西ベンガルに分けられたことによる。
東ベンガルがいまのバングラデシュとなった。

 

 

ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒、さらにはカースト内など、インドをいろいろと分断しまくったイギリスがした良いことといえば、インドをまとめたこと。
もちろん意図的にそうしたわけじゃなくて、イギリスが英語を普及させたことで、結果的にそれが各地のインド人の共通語となった。
インドには30以上の言語があると言われていて(方言を含めれば約2000)、州が変わると新聞の文字も変わってしまう。

 

このお札にはヒンディー語と英語の他に15の文字で「100(ルピー)」と書いてある。

 

それまでは出身地が違うとコミュニケーションがとれなかったインド人が、英語によって会話ができるようになった。
インドがイギリスから独立できた大きな要因に、英語によって国民の団結が可能となったことがある。
あれだけ怖れていたヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の橋渡しをイギリスがしてしまった。

英語がなかったら、このときレストランでインド人とバングラデシュ人が話すことはできなかったし、インドはいまのような世界的なIT国になることもできなかったはず。
2人ともインド独立戦争はネガティブにみていたけど、英語という置き土産についてはとてもポジティブに考えている。
21世紀のインド人やバングラデシュ人にとって、英語ができるかできないかでは人生がまったく別のものになってしまう。
現代の価値観からすると植民地支配は悪だけど、客観的にみればその中には小さな光もある。

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。