すこし前にベトナム2人とお寺へ行ってきた。
場所は静岡県島田市の智満寺というお寺で、ここは千葉山という山の中にある。
ベトナムでも仏教はさかんで山寺はめずらしくなく、あまり宗教心はないけどあえて言えば仏教徒の2人は、毎月1日と15日に山に登ってお寺参りをすることもあったという。
仏教は大きくわけて2種類あって、スリランカやタイ、ミャンマーなど東南アジアの上座部仏教と呼ばれ、中国や日本、韓国などの仏教は大乗仏教という。
伝道ルートに着目して、インドの南から伝わったことから上座部仏教は「南伝仏教」、逆に大乗仏教は「北伝仏教」ともいわれる。
ベトナムの場合は日本と同じく中国から伝わった大乗仏教だから、共通点はたくさんあって、2人に聞くとベトナム人はお寺でよく「miền nam, nam bộ」(ナモアジダファット)と唱えるという。
このベトナム語を漢字にすると「南無阿弥陀仏」になる。
そんなベトナム人2人が「これはベトナムのお寺にはないですね」と言ったのがこの手水舎だ。
手水の読み方は、むかし「てみづ」だったものが「てうづ」になって現在の「ちょうず」に変化したものだから、普通は「ちょうず」だけど「てみず」でも間違いじゃない。
「てふてふ」が「ちょうちょ」になったように、言葉の読み方は時代によって変化するものだ。
ベトナムではお寺に入るときに手に水をかける習慣がないから、こんな手水舎は見たことがないと話す。
仏様の前に立ったり祈ったりする前に、心身をきれいにするとい発想がないようだ。
そういえば上座仏教のタイ人やミャンマー人も同じようにお寺に手水舎はないと言っていたし、ボクが中国や韓国のお寺に行ったときも一度もこれを見なかった。
話を聞いたタイ人はお寺に行く前にシャワーを浴びるときもあると言っていたけど、これは個人的なことでタイの文化ではない。
手水という行為はないとしても、この考え方にはどの外国人も納得する。
この習慣はきっと日本独特。
というのは神様と接する前に心身を清浄にする手水の考え方は、罪や穢れを落とす神道の禊(みそぎ)からきたものだから。
伊勢神宮のホームページでは手水についてこう説明している。
手水では手を洗い、口をすすぎます。手や口を洗い清めることは禊を簡略化した儀式です。
身も心も清め、清々しい気持ちでお参りください。
この禊はもともと神道の行為で、神仏が習合した結果、仏教のお寺でも行われるようになったのだろう。
日本の民族宗教である神道に由来する文化だったら、ベトナムをはじめ外国の仏教寺院にあるわけがない。
ちなみに水がない場合は葉っぱや花、雪で手をこすって手水の代わりにすることもあって、それぞれ「芝手水」「草手水」「花手水」「雪手水」なんて呼ばれる。
智満寺の手水舎にはなぜか足元に金魚が泳いでいた。
「風流だな」とボクは感心したけど、ベトナム人は2人とも「金魚がかわいそうです」と言う。
見方によっては“動物虐待”案件か。
では、改めに手水のやり方を確認しておこう。
ひしゃくを洗い流すのも忘れずに。
よかったらこちらもどうぞ。
>伝道ルートに着もして、インドの南から伝わったことから上座部仏教は「南伝仏教」、逆に大乗仏教は「北伝仏教」ともいわれる。
伝道ルートに「きもして」とは? 何を着たのかな? ちょっと考えてしまいました。ああそうか「着目」ですかね?
ベトナムの仏教が中国経由の大乗仏教であるとは知りませんでした。東南アジアの言語・文化も、なかなか地域による違いが複雑なのですね。
ご指摘ありがとうございます。
おっしゃる通り、「着目」でした。
ベトナム北部は中国に1000年間、支配されていましたから日本より強い影響を受けていて、仏教もそのひとつです。