「日本と台湾は友人じゃない。 家族だろ?」
前にそんな言葉をネットで見て「なるほど。これは納得」と思ったけれど、日本と台湾の関係はとても深くてマリアージュ(素晴らしい組み合わせ)なのは間違いない。
きのう5月8日は日台友好に大きく貢献した台湾人と日本人、テレサ・テンと八田与一の命日だった。
「アジアの歌姫」と呼ばれる彼女は、台湾で特別な存在だったから、遺体は火葬されずにエンバーミングなどの特殊技術を使い、いまも生前の姿を保ったまま土葬されている。
台湾でこのように埋葬されたのは、蒋介石、蒋経国、テレサ・テンの3人だけ。
でも、今回の主役は台湾人から、「いくら感謝しても感謝しきれない!」と言われる八田与一だ。
ではまずは、台湾について簡単に知っておこう。
本州にすっぽり入るサイズ
あとで出てくるから、台南の位置を確認してほしい。
台湾ってこんなところ
面積:3万6千平方キロメートル(九州よりやや小さい)
人口:約2,360万人(2020年)
主要都市:台北,台中,高雄
言語:中国語,台湾語,客家語等
宗教:仏教,道教,キリスト教
八田与一(明治19年 – 昭和17年)
東日本大震災で日本が壊滅的なダメージを受けたとき、台湾人はそれを自分の痛みにように感じて、多くの人が支援金を送ってくれた。
この背景には、1895年から1945年までの日本による台湾統治がある。
当時日本は農産物を安定的に供給できるよう、台湾の農業政策に力を入れていた。
それで南部にある台湾最大の平野・嘉南平野に注目が集まったけど、ここは自然環境が悪くて、乾季には雨が降らず大地がひび割れるほど乾燥し、雨季には洪水で悩まされていた。
だから、作物を育てることはとても難しかったのだ。
これを何とかしようと土木技師の八田与一が派遣される。
現地を調査した八田はダム建設に最もふさわしい場所を烏山頭地区だと確信し、当時としては世界最大規模のダムをつくろうと上司に進言する。
でも返事はNO。
そんな巨大ダムの建設は夢物語で、予算もばく大になってしまうから。(台湾総督府の総予算の三分の一)
でも、八田には譲れない理由があった。
というのはダムの規模を小さくすると、嘉南平野全体に水を供給することができなくなり、隅々まで水の恵みが届かなくなってしまう。
そこに住む人たち全員を豊かにしたいという八田の願いに対して、ダムの規模と費用は現実離れしていた。
でも八田が粘り強く訴え続けたことで、1920年についにダム建設の許可が下りる。
ただこの建設費には台湾人住民も負担するという条件があったことから、それを知った台湾人が八田に怒り出す。
反発する住民に対して八田は、ダムが完成したら今いる人だけではなくて、その子供も孫もこれから台南に生活する人みんなが豊かになれると説明してダム建設の理解を訴えた。
すべての人の理解は得られなかったけど、日本人と台湾人約2000人が協力して建設が始まる。
ダム建設の重労働は八田にもどうしようもなかったけど、家族と離れて暮らす労働者を見て八田は、彼らが安心して生活できるために妻や子供と住める宿舎を作るよう上司にかけあう。
ただでさえ予算のない厳しい状況だったけど、結果は説得をつづけた八田の勝ち。
宿舎だけなく、学校やテニスコートのある小さな町を作ることに成功して、労働者と家族が楽しめるようにお祭りも開催した。
八田与一には土木技師としての知識に加えて、すぐれた政治家のような人徳もあったらしい。
実際、現場では労働者と一緒にスコップで穴を掘り、仕事を離れても、家族同然で接してくれる八田に心を許して信頼する台湾人も多かった。
つまり、八田と台湾人もマリアージュだったわけだ。
約50人の死者を出す爆発事故が起きたときには八田は遺族の家に走り、「申し訳ございません」と土間に両肘・両膝をつけて涙を流しながら謝罪する。
日本統治以前、台湾が清朝に支配されていたときは、こんなことをした中国の役人はいなかったはずだ。
歴史に詳しい中国人の日本語ガイドから、「台湾はむかし、化外の地(文明の届かない野蛮で未開なところ)と考えられていました」なんて話していたぐらいだし。
*話はそれるけど、明治日本の初めての海外派兵である「台湾出兵」のときにもこの言葉がでてきた。
台湾で日本人が殺されたことについて明治政府が清朝政府を追及したところ、「台湾人は化外の民で清政府の責任範囲でない事件」と中国側が無責任な返答をしたことが出兵につながった。
しかし、好事魔多し。
1923年に関東大震災が起こって、ダム建設の予算も吹き飛んだ。
もちろんゼロになったわけではないけど大幅カットを余儀なくされて、八田は日本人労働者の雇用を守って台湾人労働者を半分に減らすよう上から要請される。
これに対して八田はなるべく多くの台湾人を残して、日本人のほうをクビにした。
不思議に思った台湾人労働者が八田に理由をたずねると、このダムを使うのは台湾人だから、これは台湾人の手で完成させるべきだと話す。
これを聞いて台湾人もれなく号泣。(たぶん)
こうしたいくつもの苦難を乗り越えて、1930年に烏山頭ダムが完成。
巨大ダムによって、嘉南平野は豊かな穀倉地帯になる。
将来、台南に住むすべての人が豊かになりますように。そう願った八田の思いは現実になった。
烏山頭ダム
八田与一の功績をたたえて、これを後世に残すために像を建てる動きがでてくると、はじめは固辞していた八田も熱意に折れて、「台湾の人たちを見下ろすような立像ではないこと」という条件付きで像の設置を認めた。
それで、八田がダム建設のとき、よく地面に座って考えごとをしていたから、その姿にすることになった。
台湾人と同じ目線で考え行動した八田については、台湾の教科書でくわしい説明がされていて社会の常識になっている。
政治家もいまも忘れていない。
2004年に李登輝総統が、八田の故郷である金沢市を訪問し、2007年には陳水扁総統は八田に褒章令を出した。(八田與一)
しかし、日本での知名度はイマイチ。
ボクのまわりで、八田與一を知っていたのは台湾好きの人だけだった。
中国語には、「水を飲むときには、その井戸を掘った人の苦労を思いなさい」という意味で「飲水思源」という言葉がある。
1972年、日中国交正常化のために田中角栄首相が中国を訪問したとき、出迎えた周恩来首相がこう言ったことで日本でも有名になった言葉だ。
台湾の人たちは義理堅くていまでも5月8日には、八田与一に感謝の気持ちを伝える慰霊祭をおこなっている。
これはそれを伝える台湾メディア・中央通訊社の記事(2020/05/07)
台南市の烏山頭ダムで6日、追悼式が開かれ、黄偉哲市長らが八田の銅像に花を手向けた。
日本人技師・八田与一逝去から78年 台南市長が烏山頭ダムで献花/台湾
八田與一文化芸術基金会と台湾企業は日本に対する恩返しとして、日本に医療物資を寄贈することにしたという。
ことしは台南市にいる台湾人で、旅行やグルメなんかの台湾情報を発信している「Hsu Hsu」さんがSNSにこんな呼びかけをした。
台湾、台南、烏山頭ダムの設計者 : 八田与一技師の墓前祭は5月8日に行われる予定で、今年は烏山頭ダム着工百周年ですので、地元の台南市役所は八田与一技師に感謝の気持ちを伝えるために、過去より、もっとたくさんのイベントを開催し、お祝いする予定がありましたが、今年はコロナウイルスの蔓延のため、八田与一技師の故郷の日本国石川県金沢市の皆さんはいつものように出席できなくなってしまいました。
わたくし個人のお願いですが、台湾在住の日本人は5月8日や今週末にお時間がありましたら、八田与一技師の銅像の前に行って八田与一技師に一礼して頂けますか?
八田与一技師の台湾への功績はいくら感謝しても感謝しきれないですので、台湾在住の日本人は日本国石川県金沢市の皆さんの代わりに出席すれば、天国にいらっしゃる八田与一技師はきっと喜んでくださるはずだとわたくしはそう思います。
皆さん!どうか、ご協力くださいませ。
お願い申し上げます。
「いくら感謝しても感謝しきれない」という台湾人の気持ちが、東日本大震災での日本支援につながった。
まさに「飲水思源」の精神。
でも、ここまでのお供え物があるともはや神。
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台湾人がアニメを見て感じた「日本と台湾の学校との違い」とは?
台湾の方が日本に好意的であるのは、八田さんの尽力と台湾の方々の懐の大きさに寄るものですから、現代の日本人は感謝しなければなりませんね。
その通りですね。
八田与一は日本の教科書にも載ったという話を聞きました。
学校で学ばないといけない人です。