きのう7月26日はリベリアの独立記念日。
「自由」という意味の国はボクの知る限り、このリベリアとタイだけだ。
ということでリベリアさんの独立を記念して、これから建国の歴史を簡単に書いていこう。
*1939年に国名がシャムから「タイ」に変更されたことについては、東京都立図書館HPにある「国名の由来」をクリック。
英単語の「リバティー」を知っていてもアフリカにあるこの国についてはサッパリ、という人も多いだろうから、まずは基本情報を確認しましょー。
この地図では北海道の向かいにある国
リベリアとはこんな国
面積:111,370平方キロメートル(日本の約3分の1)
人口:482万人(2018年)
首都:モンロビア
民族:クペレ族,バサ族,グレボ族等
言語:英語(公用語),その他各部族語
宗教:キリスト教85%,イスラム教12%,その他
外務省ホームページの「リベリア基礎データ」から。
面積は日本の約3分の1で人口は約25分の1というから、リベリアはぜんぜん「密」じゃない。
さてこれはリベリアの国旗だけど、どこかの国と似ていると思わないだろうか?
どこぞのアメリカ合衆国とそっくりだ。
首都はモンロビアで公用語は英語、さらにキリスト教徒が多い(85%)と、この国にはアメリカに通じるところが多々ある。
というのも、リベリアは1847年7月26日にアメリカの解放奴隷によって建国された国だから。
*モンロビアは当時のアメリカ大統領モンローにちなんで付けられたもので、憲法も合衆国憲法を土台にしている。
1800年ごろからアメリカでは奴隷制を非人道的と考える人が増えてきて、解放される奴隷もでてきた。
この傾向は北部で強く、南部では白人が黒人奴隷を所有することが当然視されていた。この認識のギャップが南北戦争の原因となる。
解放されたとはいえ、元奴隷だった彼らはまともな教育を受けていなかったし、人種差別の意識はアメリカ社会で「空気」のように存在していたから、黒人にとってはかなり生きづらい。
このへんの事情は英語版ウィキペディアにくわしく書いてある。
解放奴隷は社会的、法的な差別を受けていて、白人至上主義だった南部では黒人はもちろん、黒人の血をもつヨーロッパ人やネイティブアメリカンが入ってくるのを禁止する州もあった。
While they were gradually freed in the North, the former slaves and other free blacks suffered considerable social and legal discrimination. Some Northern states and territories prohibited or severely restricted entry by free people of color.
当時のアメリカでは白人以外の「血」が理由で、差別の対象となった人たちがいた。
(free people of color)
解放されたとしても差別は残った。
元奴隷の人間がアメリカで生活することはむずかしいため、1816年にアメリカ植民協会(ACS)が組織されて、黒人の解放奴隷をアフリカへ「帰還」させる計画がはじまる。
このへんは、ドレフュス事件やホロコーストなどヨーロッパで差別を受けていたユダヤ人が「見切り」をつけて中東へ移住して自分たちの国、イスラエルを建国した事情に似ている。
ACSの資金提供を受けて、アフリカに戻って入植をはじめたはいいけど、その死亡率は人類の歴史の中で最も高いものだった(the highest in accurately recorded human history)という。
1820年~1843年にリベリアに到着した4,571人のうち、生き残ったのはわずか1,819人で半数以上が死亡した。
こうした艱難辛苦を経てアメリカの解放奴隷によって1847年にリベリアが建国されて、アフリカ最初の共和国となった。
奴隷の非人道性や苦しみをよく知っているだけあって、彼らによってつくられた「自由の国」では人々の自由と権利が尊重されたという。
…というのは「脳みそお花畑」で現実は違う。
1931年にはリベリアのゴム・プランテーションの労働は奴隷制と変わらないと国際連盟に告発され、さらにはこんなこともあった。
リベリア政府高官が加担して、リベリア人労働者がスペイン領フェルナンドポー島(現赤道ギニアのビオコ島)へ船積みされており、その状況は奴隷貿易と異ならないという噂が国際的に広まったため、政治的主権も危うくなった。
差別されていた側が解放されると、今度は差別する側になったという歴史の皮肉。
こちらの記事もいかがですか?
明治の文明開化についていけません!ポストや電線を見た日本人の反応は?
コメントを残す