この前5人のバングラデシュ人と、1人のリトアニア人と一緒にハイキングをした。
山道を歩いていると、バングラデシュ人がこれを見つけて「あれは何か?」ときいてくる。
ハッキリおぼえてないんだが、右の像は牛頭天王(ごずんてんのう)で左には仏教の菩薩の名前が書いてあったと思う。
牛頭天王は京都の八坂神社で祀られている神道の疫病神で、夏におこなわれる祇園祭はこの神に由来する。
日本文化に興味津々のバングラデシュ人に、これは神道と仏教の神で、むかしは落石や事故があったり、イノシシに襲われたりすることもあったから、山道を安全に通り抜けられるよう通行人がここで神さまに手を合わせたのだろう、と言ってみた。
この石碑の目的が本当にそれかは分からないけど、神様仏様に道中の安全を祈願することは昔の日本人には常識的だった。
いままでのハイキングでも山の入り口や登山道の途中で山の神を祀るお堂や、地蔵や観音菩薩の像を見たことがあるし、いまでもそんな神仏に手を合わせる人はよくいる。
こんな話を聞いたイスラーム教徒のバングラデシュ人は、「マジか!違う宗教が並んでいるのか」とビックリした顔をする。
そう言えばバングラデシュ人には、喜怒哀楽をそのまま顔に出す人が多いと思う。
すると日本に長くいる別のバングラデシュ人が、「日本では神道と仏教のふたつの宗教が主流で、対立することがないから、神と仏がこうして一緒にいるのは珍しいことではない」と解説する。
一神教のイスラーム教の考え方ではこの世に存在する神はアッラーだけで、他の神を信じるという行為は最もやってはいけないこと。
「あれは何か?」と質問した彼はそんな価値観を持っていたから、異教の神が並んでいる状態はすごく珍しく、日本人の信仰が興味深くみえたらしい。
「なるほど。神道の信者はここで神に祈って、仏教徒は仏に祈るのか」とひとり納得する彼に、キリスト教文化圏のリトアニアから来た人間が「いや、日本人は両方に祈ると思うよ」とツッコミを入れる。
このリトアニア人は日本に2年半ほど住んでいて、日本の社会や人についてはこの中では一番深く理解している。
そんな彼が、神と仏を同じような存在とみる日本人の独特な信仰「神仏習合」について、バングラデシュ人にこう話す。
日本人は神道と仏教を同時に信じているから、初詣で神社に行こうが、お寺に行こうがどっちでもいい。驚いたことに神道と仏教、神社と寺のちがいをきいても、よく分からないと答える日本人が多い。
まあそんなリトアニア人も神仏習合を知ったときには、「その考え方はとても不思議だ」と首をひねっていたのだけど。成長してくれて、おじさんはうれしいよ。
神仏習合についてくわしいことはここをクリック。
日本への仏教の伝来から、神と仏は同じものとして信仰されていた。その素朴な神仏習合観念は、やがて仏教の仏を本体とする本地垂迹説として理論化されるようになり
そもそも牛頭天王は神仏習合のシンボルのような存在。
薬師如来が姿を変えて現れたのが牛頭天王と考えられているのだから、仏であると同時に神道の神でもある。
上の絵を見て、「仏教の神?」と間違える日本人がいてもおかしくない。
東南アジア出身のバングラデシュ人とヨーロッパ出身のリトアニア人は外国人同士だから、価値観や考え方、習慣でいろいろと異なる点が多い。
でも、キリスト教もイスラーム教も一神教で基本的なアイデアは似ているから、信仰の仕方については互いに違和感を感じないらしい。
少なくとも神仏習合という日本人には当たり前で、世界的にはとてもユニーク信仰に比べれば。
ただキリスト教のゴッドもイスラーム教のアッラーも同じ神で、そのことばを伝えた預言者(イエスとムハンマド)が違うだけだから、キリスト教徒もイスラーム教徒も同じ神を信じていることになる。
こういう彼らの常識に驚く日本人もいるかもしれない。
愛知県にある豊川稲荷
鳥居があって「稲荷」と呼ばれているけれど、ここは正式には曹洞宗のお寺だ。
さて、2週間まえの2月3日は「神社本庁設立記念日」だった。
戦前・戦時中の短い期間、日本政府は神道と仏教を完全に分けて考える「神仏分離」を推し進めていた。
でも終戦後、政治と宗教の結びつきを問題視したアメリカが両者の関係を断ち切らせる。
そのへんの事情はここをクリック。
「大東亜戦争」や「八紘一宇」の語の使用禁止や、国家神道、軍国主義、過激なる国家主義を連想するとされる用語の使用もこれによって禁止された。
神仏習合という日本人の伝統を破壊しようとした神仏分離は、1946年(昭和21年)の2月3日に宗教法人の神社本庁が発足したことで終了。
現在の日本人は神と仏を同じように信じる、昔ながらの信仰スタイルに戻っている。
1,000年以上かけて形成された日本人の価値観は、政府の力をもってしても崩すことはできなかった。
神仏に手を合わせる行為は日本の常識だけど、外国人がそれを知ったらきっとビックリする。
特に一神教を常識としている外国人は。
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浜松市の鴨江観音で以前こんな光景を目にしました。
お祖母さんとお孫さんだとおもうのですが、お堂の中でお孫さんが柏手を叩いてしまって、お祖母さんがすこし慌ててここではちがうのよ、と教えていらっしゃいました。
他にも人はいましたが目くじらをたてる方などだれもいませんでした。
幼子には神も仏も区別はないのでしょう。でもその子はそこが他とはちがう、祈りの場だと感じたのかもしれません。
宗教というより、アニミズム的というか、原初の無邪気な信仰心のようなものが、日本人の中には残っている気がします。
> ただキリスト教のゴッドもイスラーム教のアッラーも同じ神で、そのことばを伝えた予言者(イエスとムハンマド)が違うだけだから、キリスト教徒もイスラーム教徒も同じ神を信じていることになる。
彼らの、このような見解が笑える点ですよね。もう大爆笑ものです。
もしも同じ神を信じていて、その言葉を伝えた「預言者」が違うだけであるとしたら、なぜそんなに仲が悪いのですか? 全知全能の神は、自分の信者たちが「預言者派閥」に仲間割れして、互いに殺し合いすることさえ止められないのですか? 何という無能な神様なんだ。
ちなみに「予言者」ではなく「預言者」だと思いますよ。神の言葉を預かり信者達へ伝えるのですから。新興宗教の教祖のように胡散臭い「予言者」と一緒にしたら、神様のバチが当たるのでは?
それはほほえましい光景ですね。
日光東照宮の近くのお寺には「ここで手を打たないでください」といった注意書きを見ました。
大人でも柏手を打つ人がたくさんいます。
子どもがやっても怒る人はいないと思います。日本人は大らかですから。
ご指摘のように、「預言者」の間違いでした。
ありがとうございます。
大変失礼しますが、像の形像からしますと、どちらも馬頭観音の石像と思われます。合掌の形をする馬頭観音はかず多く見られますが、牛頭天王は皆無と言っても良いと思います。
情報ありがとうございます。
調べてみると、確かに胸元で手を合わせる形式は馬頭観音に多いですね。
いっぽうで牛頭天王には少ない。
この像については牛頭天王と書いてあったと思うのですが、はっきり覚えていません。
また行く機会があったら確認してみますね。